こちらのつづきを読み進める。
今回は『実力も運のうち 能力主義は正義か?2021年』で有名なマイケル・サンデル氏をとりあげる。
(※この本は2011年に出版されているので、対象は『これからの「正義」の話をしよう』になる)
サンデル氏はリベラリストのロールズと、リバタリアニストのノージックを批判する。
両者ともにカント的な「自分の責任は自分の引き受けたものにある」という考えのもと、人間は道徳的で独立した行為者であるという前提になっている。そして、自らの選択を、自らの意志で自由に選ぶことができるという前提になっている。
ここには、人間を均質的に捉える向きがある。現実には、個々の判断力にはバラつきがある。
ここで想定されている自我をサンデル氏は「負荷なき自我」であるとして、批判する。
サンデル氏は、道徳的な責任には3つのカテゴリーがあるとしたうえで、ロールズやカントの概念では3つ目の責任は説明できないとする。
1.理性的な存在として他者を尊重し、正義を遂行すべき普遍的で自然な責任
2.他者と結んだ約束を守るべきであるという個人的で自発的な責任
3.個別的ではあるが、合意を必要としない連帯の責任
3つめの例として難民問題が挙げられる。ロールズは善よりも正義を優先しているがため、限界があるとサンデル氏は指摘する。
サンデル氏は正義よりも善を優先すべきだと主張した。
サンデル氏はロールズの正義論を部分的には肯定するものの、単に個人の効用を最大化させるだけでは公正な社会を作り出すことはできないとする。
善き社会、善き生活というものを互いに考え、公正な社会を作り出すべきであるとサンデル氏は主張した。
つづく
公開日2022-01-27
補足:
この記事を書いてからだいぶ時間が経った後に私は『実力も運のうち 能力主義は正義か?2021年』の文庫版を最後まで読んだ。(感想ははてなブログ大学文学部に収録。いずれこのブログにも掲載の予定)
「負荷なき自我」は「親ガチャ」という言葉によってある程度説明可能だと思われた。
「自分の責任は自分の引き受けたものにある」という言葉をじっくり眺めると、「自分の責任」というものの「質的な違い」自体に格差を生み出す根本原因があると思われる。
ある人は義務教育を終えた瞬間から働きに出なければならない「責任」を背負わされるかもしれない。
アメリカにおいて、「学士号」を持っていることは社会的地位を確立するため(もしくは、自由に暮らすには不自由のない生活を送るくらいの経済力)の必要条件のようなものとなっている。
例えば貧しい家庭など、生まれた瞬間から「学士号を得るためにはあまりにも厳しい環境」という「責任」に対して「自分の責任は自分の引き受けたものにある」と言うのは、そうでない者と比べてあまりにも冷酷ではないだろうか。
その観点ではやはりサンデル氏には説得力を感じる。