こちらのつづきを読み進める。
今回はレヴィナス『全体性と無限』をとりあげる。
こちらは哲学的であまりにも難しい。
実は著者もよく分かっていないのでは、という疑いが残る。というのも、この回に限っては、非常に読みづらい文章が並ぶ。
念のために、「文章の読みにくさ、悪文は、著者が何を書いているのか理解していないからである」という社会学者上野千鶴子氏の言葉を添えたい。
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レヴィナスにとって、正義とは他者との関係であるとする。
そこで、「イリヤ」という概念を提唱する。
僕にとって、ここでの問題は、この部分が難解すぎて分からないということである。
”レヴィナスはまず人間が「主体」になるというのはどのような意味をもつかを考察する。そのためにある種の思考実験を試みる。現象学的な方法で周囲の世界を完全に還元して消滅させてみよう。すると何が残るだろうか。還元した意識だけは失われないが、存在はすべて消滅している。しかし無となるのではない。「非人称で無名の、しかも鎮めがたい存在の焼尽、無の奥底でざわめきたてる焼尽」(『実存から実存者へ)がホワイト・ノイズのように残るのだ。それをレヴィナスは「イリヤ」と名づける。”P256
人間は他者によって初めて主体になることができる。
それがイリヤによる不安から解放されるのだという。
著者によればイリヤから解放されるために負う責任は重いものの、それが自己の同一性を与えることにもなるという。
どう解釈すればよいのか。正義の定義が「他者との関係」である以上、その関係というものを掘り下げて考察しなければならないと思うが、本書ではいまいち掴めなかった。
僕はここまで読んで、レヴィナスに関してはさっぱり理解できないと悟る。
いつか、部分的に理解できることがあれば追記や別の記事で形したい。
最後はデリダ『法の力』でこの本は終わりをむかえる。
つづく
公開日2022-01-27
補足:
当時の自分は難解なレヴィナスを、著者は分かっているふりをしているのではないかと考えていたようである。
今、自分はいまだにレヴィナスについては無知であるが、著者が書いているのは出鱈目ではないと考えている。