閉じる

読書日記112

     池田晶子・陸田真志『死と生きる 獄中哲学対話』新潮社 (1999)

  

つづきを読み進めた。

https://labo-dokusyo-fukurou.net/2024/04/10/%e8%aa%ad%e6%9b%b8%e6%97%a5%e8%a8%98111/

      

陸田氏は寄贈された池田氏の本やヘーゲルなどの哲学書を読む。

そして池田氏と往復書簡を始める。

今日印象に残ったことをこのブログに書き残す。

     

陸田氏は「善く生きること」を「善く死ぬこと」と考えた。

言い換えると、「潔く死刑を受け入れ潔く死ぬ」という意味であった。

ところが池田氏は「甘い」と切り捨てる。

おそらく、陸田氏はソクラテスの死刑と重ね合わせた。

   

陸田氏は、ソクラテスも死刑を受け入れたから自分も控訴せず、往復書簡はもう終わりだ、という主旨を手紙で匂わせた。

池田氏は、貴方とソクラテスは比較にすらならないと発破をかける。

「善く生きる」とは努力し続けること以外にはないと池田氏は言う。

自ら命を絶つことは努力を放棄することになる。

   

努力(この往復書簡で「善く生きる」ということを池田氏に示すこと)を放棄し、潔く死刑を受け入れることは、すなわち「善く生きること」について考えることを放棄することになる。

善く生きることについて考えることを放棄した人と「善く生きること」について対話することは成立し得ないと池田氏は言う。

ここまで読み、ひとまず僕は、努力の意味を「善く生きること」と捉えてみることにした。

つづく

公開日2022-02-09

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。必須項目には印がついています *

© 2024 ラボ読書梟 | WordPress テーマ: CrestaProject の Annina Free