ノエル・キャロル『批評について 芸術批評の哲学』のつづきを読み進める。
本書を読めば「批評」と「批判」の端的な違いが分かる。
文学作品であろうと芸術作品であろうとそれは変わらない。
批評の形式は一様ではないが、批評者は作品に対する何らかの言明を独自の観点から客観的に記述し、主観的な付加価値を付け加えなければならない。
攻撃的な批判は非難に近い。
と、批評に関することは置いておいて、僕は価値というものを何度も追求していきたい。
散歩中の思索を通して思ったことがある。
芸術作品は高価である場合が多いが、文学はそうではない。
やはり「複製」可能かどうか。
端的に希少性が問われているのだろうか。
今や音楽も電子レベルで複製可能となっている。
メタバースにおいてもいよいよ芸術作品が売り出され始めている。
個人的には、作品に内在する価値の機能やシステムはさほど変わらないと考える。
価値に関しては普遍的な法則が存在すると個人的には思うからである。
それはシニフィアンとシニフィエのようなものである。
つまりは価値も相対的に決まるものである可能性が高い。
故に、絶対的なものではない。
相場というものが日々変動するような仕方で美的価値も同じように挙動するはずである。
価値というものを深く考えれば考えるほど泥沼にハマる。
だからこそシンプルに考えるべきであると今日は結論付けた。
ここで、言葉の意味を解体する言語学の知識も活躍するかもしれない。
僕は名付けた。
「認知価値論」
つづく
公開日2022-03-12
【2024年現在の追記・補足】
いま読み直すと恥ずかしい箇所もあるが、この頃の読書に対する情熱は見習いたいと思う。