池田晶子『魂とは何か さて死んだのは誰なのか』のつづきを読む。
この本以外にも複数読んだが、最近は季節のせいなのか、精神安定剤 (悪名高きパキシル) のせいなのか、読書中に寝落ちしてしまう。
にもかかわらずやはり池田晶子氏の本だけはそうはならない。
これはもう、この人に取り憑かれていると思うくらい魅力を感じている証ではないかと感じている。
タイトルの通り<魂>についていろいろと語られている本であるが、宗教の本ではない。
池田晶子氏の本を読めばすぐにわかる。この方は「考えること」の重要性を説くのであって、「信じること」の浅はかさを語るのである。
この方は言葉を「味わう」ことを常日頃からしていたのではないかと思う。
僕も時々、言葉の意味について思いを巡らせると不思議な感覚を覚えることがある。
時に池田氏はマルクス・ガブリエルを彷彿とさせる一幕を見せることもある。
精神と脳について、少し前に記事にした。
心理学でいう「ゲシュタルト」は、ヒッグス粒子の如く捉えどころのない概念ではあるが、大局的に事をみれば存在しているように見える。
言葉に宿る不思議な感覚は閾値に届かないほどに繊細な性質を持っている。
この微少な運動を池田氏は拾い、言語化してみせているのである。
「わからないものはいくら考えてもわからない」
「魂を基点にすれば人は自由になれる」
凡人と天才の断絶を<魂>から考えるとお互い異質であって、同質ではない。
それは脳科学や遺伝子から説明できるものではない。
池田氏はそのように語る。
また、<私>という存在も決して遺伝子から説明できるものではないと喝破する。
時代はいよいよ6Gに近づき人間と機械の融合が始まろうとしている。
僕は機械が「人間とはこういうものであった」と説明する日が来るとしか思えない。
人間が過去の存在として語られるのである。
これは冗談ではない。
そう感じる人は少なくないのではないだろうか。
つづく
公開日2022-03-14