石戸諭『東京ルポルタージュ:疫病とオリンピックの街で』毎日新聞出版(2021年)を読む。
自粛のなかで人々がどのようなことを考えていたり、行動をしていたりしていたのかが赤裸々に語られる。
仕事上、人との接触がメインである職は概ね自粛を迫られ、自宅でテレワークができる人を「勝ち組」と表現する人もいた。
仕事をしたくてもできない。夢がある人はあの状況をどう乗り越えたのだろうか。詳しくは語られていなかった。
新橋にある居酒屋での取材では、「そもそもバブル以降新橋で飲めること自体が勝ち組なのかもしれない」と言う人もいた。僕はこの「勝ち組」という言葉がそろそろ死語になるのではと感じた。というのも、まもなく1億総貧乏をむかえる日本では「勝ち組」はもはや手に届かない、高値の花となるかもしれないからである。人は自分とは程遠い存在には嫉妬しないものだ。勝ち、負け、二項対立の崩壊。
自粛のなか、営業をひっそりつづける人もいれば、素直に協力する人もいた。
自粛警察はひっそり続ける人たちのお店で飲んでいる人を叩く。
おそらく「分断」という概念が日本にも広まった時期だ。
今ふりかえって考えてみると、自粛警察は批判する対象を間違えていたのかもしれない。
協力金は世界レベルで見れば異常なほど機能しなかった。
そこには政府の在り方や技術的問題点があることがのちに分かる。
本当に日本の将来を考えるのであれば、政治から底上げするしかない。
表面的な部分を叩いても何も変わらないではないか。
技術よりも政治。これが僕のいまのところの持論である。
つづく
公開日2022-03-29