■株式会社光文社
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つづきを読み終えた。
ソクラテスはアニュトスとの対話を経て「徳は教えられない」という結論に達した。
読み終わって少しの間考えてみたが、この本の構造はなかなか複雑なように思えたので、明日以降も時々今日のことを振り返ることで少しずつ血肉となっていくだろう。
なぜ教えられないのか。それは理解できた。
例えば医学を学びたい場合、医学部の教授から教えてもらうのが一番である。野球を教えてもらいたい場合、理想はプロ野球選手から教えてもらうのが一番である。特定の技術は専門家から学べばいい。
この考えに基づいて、ソクラテスらは「徳は徳の備わった人間に教えてもらわなければならない」と理解する。
ここまではすんなり頭に入った。
しかし、テーマが「徳を学びたい者は誰のもとにいくべきか」となった時、誰もいないことに彼らは気がついたのである。
ソクラテスとアニュトスは、ソフィスト(プロタゴラスなど)が徳を備えているようには見えないと同意する。
実際、『プロタゴラス』では、ソクラテスとの白熱の討論の末、プロタゴラスがほら吹きだと分かってしまった。
次に、「では徳が備わった人が歴史上いなかったとでもいうのか?」と問うたとき、「それはない」と同意する。
しかし、当時の偉人の息子たちが、最高の徳を備えたと必ずしもいえないということに同二人が意したとき、最高の徳を備えた偉人は、他の誰よりも徳においては優位に立っているにも関わらず、徳を教えることができていないことが分かる。
だからといってプロタゴラスのような、ほら吹きのもとで徳を学ぶべきだ、とは絶対にならない。「それは阿保だ」とアニュトスは語った。
これが教育のパラドックスともいうべき状況だと自分には思えた。
人生において、最も大事だと思われる要素のひとつ「徳」を備えた者でさえも、それを教えることができない。
結局のところ、「正しい考えのもと」で、「想起」するしか徳を身に着ける術はない。
この作業を限りなく正確に出来るのはソクラテスくらいしかいない。
しかし、困難な作業だからこそ、敢えて立ち向かう価値はある。
この本は常にカバンに入れて、何か疑問に思ったときや行き詰ったときにじっくり再読したいと思った。