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日記
ぱらぱらとめくると面白そうなページにたどり着いた。
ハンチントン『文明の衝突』に対する、批評というよりかは文句が書かれていた。
前にも書いたように、池田晶子は「国家」というものが存在しないものだと考えている。
この考え方は小室直樹の社会科学に対する考え方(人間の作為次第で社会は変わると考える)と対照的に映って見えた。
小室直樹的に言わせれば、池田晶子は「社会唯名論」に近いほうだと思われる。
社会唯名論側にもそれなりの理屈というものがあるので、ただ単純にハンチントンの理論を否定しているわけではないので、池田晶子が誤っていると判断するのは早計である。
204項では、なぜ池田晶子が文明論に共感を示さないのか、ヘーゲルの「絶対精神」を引き出しながら言及されている。
“いいかね、「文明上のアイデンティティ」と彼は言う。人は、自分が何者であるかということを何ものかに求めるものだ、それがかつては国家やイデオロギーであったが、今後それは文明へと求められるだろう、なぜなら文明こそは、人が自ら選べなかった最も根源的なものだから、と。つまり彼は、人は自分には選べない文明を自分で選べる、と述べているわけなのだ。選べないが、選べる、とね。さてこれはどういうことなのか。(・・・)とすると、自分を何者かであると思っているところのその自分は、何者でもないのでなければならないね。それをヘーゲルは「絶対精神」というのだ。” P204-205
このあたりがすぐに飲み込めなかったので少し読みながら考えた。
究極的には、国家の成員は「誰でもよい」ということになる。
誰が住んでいようと、日本と呼ばれるところの土地に住んでいる人々の集合体は「日本」と呼ばれるわけである。
アイデンティティという観点から池田晶子が国家というものを認めないのは、「誰でもよい」ものから成っている「国家」というものの無内容性に、何ら意味を感じないからではないだろうか。
「私は日本人である」と言明するとき、その日本という「国家」は、ただそこに住んでいる人の集合をほかの名詞で言い直しただけだいうことを踏まえれば、なぜ無意味なのかはすぐに理解できる。
デリダの脱構築とは違うかもしれないが、池田晶子もある意味破壊的な言語観を持っているように感じる。
本質すぎるがゆえに、現実の矛盾が浮かび上がり、いかにに現実が虚構で成り立っているのかを池田晶子は間接的に明るみに出している。
小室直樹が池田晶子の本を読むとどう反応を示すか自分は気になる。
何を語るのだろうか。全く想像がつかない。
それぞれ生き方が違うので、小室直樹は理屈は理解するが分析の道具としては使えない、とでも言うのだろうか。
(小室直樹は社会実在論の立場に立つので。)
池田晶子の言語に対する考えは昨日読んだスピヴァクの「内側から解体」する精神にどことなく通ずるものを感じた。
読むたびに、いつも考えさせられる池田晶子の本はやはり素晴らしいものだと感じた。
つづく