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読書日記503

      ジョルジュ バタイユ『文学と悪』ちくま学芸文庫(1998)

■株式会社筑摩書房

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日記

  

日読んだ本:

モーリス・ブランショ『モーリス・ブランショ政治論集1958-1993』月曜社

秋嶋亮『無思考国家』白馬社

ジョルジュ・バタイユ『文学と悪』

ニック・ランド『絶滅への渇望 : ジョルジュ・バタイユと伝染性ニヒリズム』河出書房新社

現代詩手帖『ブランショー不可能の彼方へ』思潮社

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今日の日記:

今日も芸術について思いをめぐらす。

あまり大きな閃きは無く、今日は平凡な日であったように感じた。

メモ

芸術が心地のよいものであれば、本質的に芸術は気づかれないことにある。

自転車に乗りながら人は普通、快適で気持ちのよいものだとはあまり感じない。

それは慣れであり、当たり前であるからである。

しかしながら、自転車は徒歩と比べ快適であることは否定できない。

快適に感じることがあればそれは疲れているときに楽に道を進める時である。

本質的に、美とは目的に合致していることにある。

哲学用語で言えば「合目的的」である。

普通、自転車に無駄な機能はない。

それは目的に忠実に設計されているからである。

その意味では自転車も「美」である。

いま述べたようなことは社会学的には「機能主義」と呼ばれるみたいである。

芸術を社会学的にみてみるのも面白いかもしれない。

話を戻したい。

仮に、心地の良さが美であれば以下のことが言えるのではないだろうか。

夕日が美しいのは、おそらくその時以外の時間帯と比べて「快」であるからである。

対比としての美が浮き上がる。

相対的な美と絶対的な美があるようにはみえる。

しかし、プラトンのイデアには疑問が浮かび上がる。

さきほどまで述べたことを鑑みれば、美にも多様性はあるようにみえる。

何故絶対的な美はひとつしかないのか。

夕日は美しい。星空も美しい。

対比として、認知としての美。

公開日2022/6/23

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