■名古屋大学出版会(国立大学法人名古屋大学)
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日記
今日読んだ本:
ホルヘ・ルイス・ボルヘス『記憶の図書館』
チャールズ・テイラー『自我の源泉』
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メモ
フロベール「私は自分の文章を急かすことを拒む」
ボルヘス「物事は間接的に語る時に最も強くなる」
バーナード・ショー (1856-1950) イギリスの脚本家、文学者。
ボルヘス「フロベールを読まないのは間違い」
ボルヘス「人が完璧を求めるのは、他のものを求めることが不可能だから」
テイラー「アイデンティティは複雑かつ多面的」
テイラー「自分とは何者であるかを私が明らかにする時、私の立場を明らかにすることによってである」
テイラー「ある言語の中へと導かれることなしに私たちが人格のあり方へと導かれるということなど決してない」
テイラー「私のアイデンティティは、本質的にいくつかの事柄が私にとって意義をもつ仕方によって定義される」
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日記
何度も挫折した『自我の源泉』を50ページほど読み進めた。
本書の論旨がわずかだけ見え始めた。
このなんともいえない達成感は読書の醍醐味でもあるように感じた。
例えば、内容としてはエーリッヒ・フロム『自由からの逃走』と部分的には重なっているように感じた。
『自由からの逃走』の論旨を完璧には理解していないが、この本のタイトルから察するに、ある側面では近代化以降、人々は「なんのために生きるのか」という漠然とした問いに苦しめられている。
産業革命と学問の発達は分離できない。
技術の向上と産業の発達は明らかに比例している。
社会心理学、生物学などの学問が人間というものを記述し始めた。
勿論、現代に至ってもこの問題がクリアされていない。
今日の段階では、チャールズ・テイラーは「道徳と自我」の関係性について非常に深いレベルの話から説明しているように感じた。
断片的ではあるものの、何を言いたいのか少しだけ理解できた。
例えば人種差別というものは、突き詰めると差別する側が生物的に優位にあることが前提にされている。
しかしながら、現時点でそもそも何をもって優位とみなせるのかという問いに答えることができない。
その尺度はいかにして存在し得るのか。そういう根本的な問いかけが本書のなかで語られている。
アイデンティティはコミットメントであり帰属でもあるとテイラーは述べていた。
例えば、アナキストであったりカトリックであるという「コミットメント」。
もう一方では「私は日本人である」という帰属。
その他にも無数の帰属の対象がありコミットメントがある。
本書を読みながら存在論と道徳の交差点を歩く。
しかしながら、テイラーとは別の問いを私は抱いた。
「私は日本人だ」と誇りをもって述べるとき、日本人であることは、例えばギリシャ人であることよりも重要なことなのだろうか。
日本人であるから誇りなのか、それとも先天的に、生まれついた大地に無条件に誇りをもてるのだろうか。
換言すれば、帰属先が「在る」ことが最も大事なことなのだろうか。そのような問いかけを自分で行う。
さらに言えば、おそらくアイデンティティとして記述されるあらゆるものは、遡及すると「承認」にたどり着くのではないだろうか。
「日本人」というものが世界中で負のレッテルを負っている場合、無条件で誇りに思えるのだろうか。世界から認められていることがまず先なのではないだろうか。
というわけで、テイラーとは話の方向が逸れてしまったが、今日はひとまずアイデンティティが承認に還元される可能性について言及してみた。
公開日2022-07-17