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日記
5月を振り返れば、ピーター・シンガーと功利主義のことばかり考えていたように思う。
4月は自由について考察をしていた記憶がある。
長々と、そして地道に読み込んで、踏ん張ってみたが、やはり功利主義陣営には賛同しにくい状況ではある。
ピーター・シンガーの本はあらゆる考察の材料を提供してくれた。そして新しい価値観を知ることができた。
それでも、感覚として自分は功利主義には敬遠しつつある。
なぜなのだろうか。少し考えてみたが、プラトン(あるいは池田晶子の本)に耽溺した人は功利主義陣営に向かうことはなかなかないのではないかと自分なりに考えるに至った。
勿論、まだまだ思考が足りていないのは重々承知ではある。早計な判断というよりも、君は功利主義のなにを理解しているのだねと言われても仕方がないかもしれない。
自分にはどうしても、功利主義は英米ヒューマニズムである、生命の無条件的肯定の延長線上に思えてしまうのである。(そもそも功利主義という考えもまた英国で誕生したわけなので)
カントであれば、功利主義の原理を称賛することはあるかもしれないが、自分はそれが正しいとは思えないと言うかもしれない。
『合理性と自由』を手に取った理由としては、功利主義とカント主義の対立を、違った視点で考えるにはアマルティア・センを参照すべきだと最近思いつつあり、難解とは分かっていても読まずにはいられなかったからである。
・・・
『合理性と自由 上』
アマルティア・センによれば、合理性の考慮なしに自由を捉えることはできないという。
自由については様々な哲学上の議論があった。
他行為可能性の観点から自分なりに考察した時期もあった。
人生に選択肢がなければただレールの上を走る電車と変わらない。
『そうしないことはありえたか』を読み、この議論を追ってみたものの、無限に細分化されていく議論に自分は挫折してしまった。
他行為可能性から考える自由意志の議論はまだ決着がつかず、様々な哲学者の頭を悩ませている。
“自由という観念が時として価値、選好、理由から離れて定式化されることがあるとしても、ある人が選好していること、選好する理由があることについてのなんらかの観点なしには、自由を十分に見定めることはできないのである。(・・・)要するに、理性に基づく精査という意味での合理性は自由という観念とその評価にとって中心的なものにならざるをえないのである。” P5
“(・・・)そもそも、自己利益のみを配慮すべきなのかどうか(もしそうだとしてもどの程度か)を考慮する自由を持たないということは合理性の深刻な限界なのである。” P9
素人なりにざっくりとまとめる。
合理性と自由が同時に成立することによって、常に最適な選択ができる。万人がこのように生きることができる社会が功利主義の理想形と言える。
しかし、世の中そんな単純ならば苦しいことはない。
合理的に生きることを敢えてしない者が一定必ずいる。その人にとって自由とは何か。そのような人が一定数いる社会にとって、合理性というものはどのような意義を持つのか。
これを理論としてまとめていくには途方もない思考と作業が必要になるということくらいは理解できる、
あまりにも複雑な世界である。
自由を考えだすとこうまで頭が回らなくなるのか。
ところがどっこい。池田晶子は淡々と語る。
・・・
『人生は愉快だ』
最近はスピノザが流行っているようにみえる。
80項にはスピノザの「自由な人間」の定義が書かれている。
“《自由な人間は何よりも死について考えることがない。そして彼の知恵は、死についての省察ではなく、生きることについての省察である》” P80
池田晶子は当然、この考えにメスを入れる。
スピノザの「自由な人間」の証明の過程のなかに、死への恐れというものを池田晶子はみてとる。
理性的な人間は死を恐れるのではなく、善く生きることだと池田晶子が語る。
そして善く生きることのみが自由であるとかたる。そのためには理性に従わなければならない。
死を考えないのは動物の生に等しいと池田晶子は語る。
・・・
『消去【新装版】』
自分は消去を気に入っている。いたるところに名言が散りばめられている。
“人間は頭の中に新鮮な空気を送り込む必要がある、と叔父は何度も言った。つまり頭の中へ日々新たに世界を取り入れねばならない。” P26
ガンベッティは叔父に、精神的に生きる方法を絶えず学び続けた。
精神的に生きるということは、つまり理性的に生きること、そして池田晶子風にいえば善く生きるということだ。
『消去』にはそのヒントが沢山詰まっていると自分には思われる。
崇高な対象へと向かうガンベッティの悪口が、この効果で見事に薄れ、そしてユーモアに変容する。
読んでいて痛快。
・・・
『チャールズ・テイラーの思想』
ウェーバー問題をもっと早い段階で予測していたのはルソーかもしれない。
“ルソーは、自然が道徳的源泉であると主張するなかで、前に述べた世界の脱魔術化に、繰り返し批判的な反応をしている。それは彼が、科学の進歩と癒着した利益の多くに懐疑的だったからである。” P112
いま参照すべき思想はコミュニタリアニズムであることは疑いない。
小室直樹、宮台真司教授の問題意識を共有している。
引き続き読み進めていきたい。