■株式会社青土社
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日記
この本は発売前から注目しており、読んでみたく、ネットで購入。今日届いたので読む。
坪内祐三という批評家が「ド・マン『読むことのアレゴリー』は古典だ」、と日記のなかで書いていた。
哲学者の國分功一郎氏は『読むことのアレゴリー』の文庫版の帯に、「ただ読むことでひとつの倫理に到達する」と書いていた。
読むことと倫理にはたしかに何らかの関係性はありそうだ。
しかし、なんだか読むことが、なにか神聖化されているような文言ではないか。
・・・
本書は非常に濃厚で、ド・マン『美学イデオロギー』に関する考察や、彼らが残した論考に関するものが列挙されている。一日約二時間弱。少し読んだだけでは本書がどこに向かうのかは定かではないが、読んでいてテクストが物質のようにふるまっている様子が伝わる。
意味は決定不能だというのが、少なくともド・マンの見解であるようだ。
これはシュレーディンガーの猫を思わせる。過去のブログでこのことについては何回も触れた。アナロジーとして成立するだけでなく、フラクタル構造になっているとすら感じさせられる。
しかし、意味の決定不能性と倫理について、なにがどう繋がっていくのか今の段階ではさっぱり分からない。
過去にド・マンの本を読み漁ったが、意味がどうしても定まりきらない現象については理解できたが、テクストを読むことが倫理にいかにして到達するのかは、今でもイメージがわかない。
池田晶子は、自分自身で問いつづけ、考えつづけることによって、真理に到達することは何回も語っていた。
「誰が考えてもそうなる」ことは、疑いようもないので客観的な真理となる。
しかし普通の人間はそこまではできないように思われる。
だからこそテクストに向かうのである。
意味が決定不能であるように、テクストの解釈もまた振り子のように揺れていくかもしれないが、読み続けることによってテクストの息というものが見えてくるのかもしれない。
そしてその息づかいは、自分の息づかいと必ずどこかの点で一致する。
そのような普遍的なものをテクストから救い出すことによって倫理に到達する。
ということを言いたいのかもしれない。それを確認し終わるまではしばらくゆっくり本書と向き合いたい。