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日記
一時自分は「矛盾=パラドックス」の不思議に未了された時期があった。今も多少その残滓は残っている。
普通の人間であれば(そもそも普通の人間の定義すら難解ではあるがそこは括弧に入れるとして)、ラッセルのパラドックスや(ラッセルのパラドックスは有名ではあるが)、シンプソンのパラドックスなど、あらゆるパラドックスを深く考えたりはしないかもしれない。
自分は普段から社会の矛盾についてよく考ざるを得ないたちであったので、岩波書店『ポール・ド・マン 言語の不可能性、倫理の可能性』やオースティン『言語行為論』に強く惹かれた。
忘れないうちに一例を書いておく。
ボウリング場のワンシーンだ。
靴紐を上から通すか、下から通すか、どっちが正しいのか?という質問に対して、
「何が違うのさ」
と答えたとする。
これが「言語の不可能性」の一例である。
一見、その意味は「くだらないな。どっちでもいいから早く結びなよ」にみえるが、上から通す場合と下から通す場合の質的な違いについて聞いている可能性を完全には否定できない。
意味は決定不能になる余地が常にあるというのが、ポール・ド・マン『読むことのアレゴリー』の主な主張であったとされている。
で、何が面白いのかというと、これが自然界においても同じことが起きているということである。
前にも書いたが、シュレーディンガーの猫のように、「生きている状態と死んでいる状態が同時に存在する=矛盾」が言語の世界においても不可避的に起こってしまうという共通性にある。
言葉は深い。深すぎる。
そして、この「矛盾」という魔法は様々な分野で幅を利かせる。
一例を書いておくと、これは責任と自由についても同様の現象が発生する。
山口尚『人が人を罰するということ ――自由と責任の哲学入門』では、「自由意志」問題につきまとう難問について書かれていた。
自由意志を否定し、「責任など実在しない」とすると、その主張は人間の存在条件を人間自身が否定することに等しいということが判明した。
「行為」は操作されていない(要するに自由が存在する場合)ときには可能である。裏を返せば、自由意志がないと主張すること(=行為すること)は字義的に矛盾なのである。
「自由に主張すること」と「責任など存在しないと言明すること」は両立不能ということである。
・・・
物事を理屈や正義感で考えれば、社会の矛盾を無視することは難しい。
否応なく、矛盾というものはあらゆる空間において私たちに迫ってくるからだ。
だが一方で、矛盾はある意味ポジティブに捉えれば、それは人間らしさでもある。
「理屈じゃない」というセリフに象徴なのであるが、これは非合理的な選択が合理的な選択に取って代わることである。
小室直樹は言っていた。
「合理的であろうとする動機が、合理的であるはずがない」
・・・
カフカは何に苦しみ、何を変えたかったのだろうか。
デリダは何に納得ができず、何を見つけたかったのだろうか。
今月、書物復権でデリダ『法の力』が出ていた。そこまで高くなかったので買うことにした。
ちくま新書から出ている『正義論の名著』に言及されている本である。
法律もまた、深く突き詰めれば矛盾だらけなのだろう。
矛盾、矛盾、矛盾、矛盾。
矛盾が少なくなれば幸せな世界が訪れるだろうか。
矛盾と矛盾がぶつかり合うと核反応のように巨大なエネルギーが生まれる。
世の中、怒りの何割かは矛盾に由来するのではないか。
そんなことを考えながら、楽しく読書ができた一日であったように思う。
カフカ入門講義は大学生の頃の、文学の講義を思い出す。こんな感じだったなという感覚。
『黄色い家』は相変わらず終わりの見えない長い物語である。
買ってから二週間経った頃か。370項までしか進んでいない。
つづく