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読書日記662

  モリス・バーマン『デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化』文藝春秋(2019)

■株式会社文藝春秋

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つづきを読み進めた。

https://labo-dokusyo-fukurou.net/2024/06/01/%e8%aa%ad%e6%9b%b8%e6%97%a5%e8%a8%98621/

  

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日記

二周目は以前と違った視点で考えるようになった。

太古の人間は神が全てで世界の中心は神だった。

それがデカルト以後、「機械的」な自然(物理学的な法則に基づいて宇宙はただ機械のように自動的に運動しているという見方)が中心であるという見方にシフトする。

個人的には、このわずかな変化は、人間の物の見方を大きく変えたように思えるのである。

意識はニューロンの発火であるという。

また、記憶を人工的に植え付けることも可能になるのだという。

こうなってくると、有機物であることと無機物の間には何も違いがなく、両者ともにただの機械であるという見方になってくる。

かくして資本主義を「機械」に倒置させて論じる思想家の登場である。(ドゥルーズ=ガタリ)

それは一方でアニミズム(物に意識が宿っているという考え方)を拒否するものでもある。

しかしながら、である。

今日でもお墓に向かって話かけたり、お地蔵さんに向かってお辞儀をする人々がいる。

これは単なる文化なのか。

名残なのか。

そうとも言えない。

アニミズムは今日、どこにでも見られる。

理屈だけでは説明しきれない事がいくらでもある。

科学はせいぜいまだ500年程度の歴史しか持っていない。

千年単位で物事を俯瞰すれば、事実、考え方はゆっくりとシフトしていく。しかし、もしかすればこの現代的な物の見方は一過性のものである可能性も否定はできない。

つづく

公開日2022/9/8

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