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読書日記663

        宮崎駿『折り返し点: 1997~2008』岩波書店(2008)

■株式会社岩波書店

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つづきを読み進めた。

https://labo-dokusyo-fukurou.net/2024/05/31/%e8%aa%ad%e6%9b%b8%e6%97%a5%e8%a8%98603/

  

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日記

昨日読んだ『デカルトからベイトソンへ』において、私は科学の発展とともに、人類は自然というものをただ物理法則に従うだけの機械と見なしている向きを感じた。

https://labo-dokusyo-fukurou.net/2024/06/03/%e8%aa%ad%e6%9b%b8%e6%97%a5%e8%a8%98662/

  

アニミズムというものが科学によって、洗い落とされている。

しかしながら、洗い物は完全に汚れを落としきれないように、アニミズムそのものが消滅しているわけではないことを書いた。

本書は序盤から200項にかけてひたすら『もののけ姫』について語られる。

宮崎駿氏は少なからず自然を破壊し続ける資本主義、人間活動に疑問を抱いている。

私はひとつ思うことがあった。

まず、デカルト以後自然を機械とみなしつつある人間そのものも「機械」として見なしている向きがあるのではないかということである。

ニヒリズムとは人生には意味がない、つまり人間も機械となにも変わらないただの有機体に過ぎないという考え方なのである。機械は壊れればそこでおしまい。人間も同様、死後はなにもない。おしまい。そういう態度なのである。

であれば。「自然ー人間」という二項対立はデカルト以後の価値観と相容れないものとなる。

私はここに違和感を感じた。

なぜならば、人間は自然ではないという考えが見受けられるからである。

おかしな話ではないだろうか。

この態度はニヒリズムとはやや性質がことなる。

人間は自然の一部ではないと見なすのであれば、人間は有機体を越えた何者かである。

これは認知的なバグの一種であるのか。

私はそうは思えない。

公開日2022/9/9

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