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読書日記715

      ヴィクトール・フランクル『意味への意志』春秋社(2002)

■株式会社春秋社

公式HP:https://www.shunjusha.co.jp/

公式X(旧 Twitter ):https://x.com/shunjusha?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

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つづきをよみすすめた。

https://labo-dokusyo-fukurou.net/2024/06/09/%e8%aa%ad%e6%9b%b8%e6%97%a5%e8%a8%98704/

  

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日記

虚無感について責任と時間の観点からフランクルは語る。

責任という言葉は社会的な意味合いが強いように思う。

過失に対する責任、仕事に対する責任。

そこには義務という言葉が付着している。

人はその限りにおいてはなるほど、往々にして全うしているように見える。

だがしかし、それだけでは集団神経症と責任性の負の相関の説明が足りなさすぎる。

まるで責任というものが人間を苦しめているように見える。

むしろ逆だ。

仮に人生を生き抜く義務があるとしたならば、それを放棄する人(つまりは自殺など)の多さは異常ではないだろうか。

義務を負う義務がある。

義務を負う義務を負う義務がある。

無限後退。

そうではなくて、フランクルは逆説的に自分の人生に責任を負う必要性を説く。

義務と責任については考察が足りないのでまた次回以降考えてみたい。

・・・

仮に過去と未来の概念を理解できない人が存在するとする。

その人はノイローゼになるだろうか。

あくまで推測でしかないのだが、いないようにみえる。

時間とノイローゼの関係性について、本書を読んでいると関連性を匂わせる。

公開日2022/10/7

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