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新・読書日記70

         E.M. シオラン『告白と呪詛』紀伊國屋書店(1994)

■株式会社紀伊國屋書店

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    富岡幸一郎『使徒的人間──カール・バルト』講談社学芸文庫(2012)

■株式会社講談社

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      イマヌエル・カント『道徳形而上学の基礎づけ』光文社(2012)

■株式会社光文社

公式HP:https://www.kobunsha.com/

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メモ

『告白と呪詛』

“「真剣さ」「誠実さ」は、存在の定義には参入できない。「悲劇的なもの」なら参入できる。なぜなら、そこには椿事の、また、理由でも何もない大厄災の観念が含まれるからである。だが、「真剣」「誠実」のほうは、何がしか目的というものを仮定している。ところで、存在の偉大な独自性は、ひとかけらの目的も持たないところにある。” P100

  

“仕事の努力よりも、倦怠のときのほうが、比較を絶してたくさんのことを私たちは学び取るものである。努力こそ、瞑想の最大の敵なのだから。” P184

  

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日記

川上未映子『ヘヴン』を読み終えたので、次に読む小説をどうしようかと思いつつ、そういえば『オデュッセイア』を読めていないと自覚しつつも、5冊くらい持ち歩いて今なにが読みたいか探りながら、結果的にはシオランとカントに向かった。

  

『道徳形而上学の基礎づけ』を一度最後まで読み通したが、だいぶ時間が経っていたと感じたのと、ピーター・シンガーの支持する功利主義へのアンチテーゼとして、いまいちどカントを読んでみようと思うに至った。

ピーター・シンガーが功利主義に傾いた理由は理解できた。ベンサムは幸福を「快楽」と「苦痛」の観点から考え、功利主義は苦痛を減らすことに重きを置く。また、動物には意識がどれほどハッキリしているかは分からないが、家畜にされている動物たちは明らかに苦痛を感じていると思われる挙動を見せていることから、ピーター・シンガーは功利主義の適用範囲を動物にまで拡大させた。だからピーター・シンガーはカントの義務論よりも功利主義に傾いていると自分は解釈しているのである。

  

それ自体で価値のある意志をカントは「善い意志」とした。

34項には「いたずらに高尚さを求める幻想がひそんでいるのではないか?」と、反論されることを想定している様子が伝わる。カントの問いかけは面白く、宗教的なにおいが全くなく、「なぜ自然は人間に対して不完全な理性を与えたのか?」と合理的に詰めていく。この問いに対する見解は以下のとおりであった。

“だとすると、理性の真の使命は、何かほかの意図を実現するための手段としての善い意志をもたたすことではなく、それ自体において善であるような意志をもたらすことでなければならない。そのためにこそ、理性は絶対に必要だったのである。自然は、つねに、みずからの素質を分配するにあたっては、目的に適ったやり方をしてきたからである。” P38

 

カントは善い意志について具体例を提示した。商人が買い物に慣れていない客に対して、値上げをせず適切な価格で提供する商人の親切な行為について吟味されたが、利益が目的である以上、それ自体で善い意志であるとは認められないとした。

このあたりを読んでいるときに、「目的」という概念について再度考えさせられた。

『判断力批判』において、美は「目的なき合目的性」とカントは定義していた。

美と倫理の類似性については『カント 美と倫理とのはざまで』で多少かじった自分は、「無目的性」という概念について思いをめぐらせた。

  

シオランは目的というものを明らかに嫌悪している。また、自分が知っているとある作家も「人は目的を持つとろくなことをしない」といったことを書いていた。

目的のある行動または行為は「それ自体で善である行為」に該当しないのではないか、自分はそう考えた。

シオランは感覚的に、目的のある行為になんらかの欺瞞を感じ取っていたのかもしれない。(かりにその帰結が万人に利益をもたらす場合だとしても)

  

自分は5月にしていた資本主義への批判的考察のなかで、マーク・フィッシャーを読みながらも目的と精神疾患の相関性について考えが至らなかった。

しかし今日気が付いた。

ビョンチョル・ハンに『疲労社会』『情報支配社会』といった本があるが、自分は現代の特徴を「意味過剰社会(または理由過剰社会)」としてみたい。

  

ヴィクトール・フランクルは人生の意味について様々な回答を行っていたが、現代社会は意味が過剰であることを直接訴えることはなかったように思う。

なぜ人は人生に意味を求めるのか。それは、自分に言わせれば社会が意味で飽和状態にあるからではないだうか。

ここまで非常に抽象的なことを書いてきたので、忘れないうちに具体的なことを書いておきたい。

  

「それやる意味ある?」「それをやることに何の意味がある?」といった問いかけは現代にはありふれている。

この場合、意味は「価値」という単語と置き換え可能である。

「それやる価値ある?」という文章の意味は問題なく成立する。

おそらく、近代以前にはこのような問いかけはなかったのかもしれない。

英語で「理由」をあらわす [reason] の語源は [ratio]であり、「計算」であるとされる。短絡的な解釈を避けなければならないが、行動に理由がついてまわるには現代的な特徴なのではないか?そう考える自分がいた。

  

現代には意味というものが過剰に求められるので、もしかすれば逆説的に人々は本来の「意味」という言葉が意味することを忘れてしまっているのかもしれない。これは難しく深い問いである。

  

「それ自体が善である行為」には、目的がない。(≒無目的の合目的性)

過剰に意味が求められ、意味に苦しむ人を救うのはもしかすれば倫理なのかもしれない。

倫理について、カントは「自由の法則」と定義をしている。

意味に苦しむことは明らかに「不自由」である。

自由の条件とは、意味への意志(フランクル)ではなく、無目的への意志ではないだろうか。

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