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読書日記786

       小坂井敏晶『増補 責任という虚構』ちくま学芸文庫(2020)

■株式会社筑摩書房

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日記

50ページほど読む。

本書を読むことによって、なぜ言葉の絶対的な価値性が現代において失われつつあるのかという問題提起に対するひとつの材料を提供し得ると感じた。

そのことについては一旦置いておいて、興味深いと感じたことを書き残したい。

・・・

著者は、人格形成は環境に依存するため、責任の所在は人間個人ではなく環境にあるという考えを示す。

その考えでは、罪を犯す人間は決定論的に犯すのであり、また、罪の重さも重度の場合が多々ある。理性の力、すなわち自由意思がほとんどない人間には罪が重くなる傾向にある。

逆に、ある衝動に駆り立てられても尚それを理性の力で抑える能力のある人間というのは、言い換えれば、自由意思があればあるほど罪が軽くなる傾向にあるという、矛盾律が存在するという話であった。

そして、このことが美容整形の話と相似関係にあり、生まれ持った顔は自分の力で形成した訳ではないにもかかわらず、整形という自発的な行為から生まれた美に関して、「その人の本当の美しさではない」という批判を浴びせられることもある。

・・・

アイヒマン実験に依拠しながら、人は環境の力にいかに左右されるのか、いかに責任というものが外部的な要因が大きいか、そのことについて考えさせられる話であったが、個人的にアイヒマン実験には若干の疑問があるが書くの長くなるので、次回以降、時間があればいろいろと書き残したい。

公開日2022/10/29

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