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つづきをよみすすめた。
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日記
気がつけば最終章が見えてきた。
冤罪に関する歴史的な事実をもとに、人間の認知バイアスと法手続の形式性に問題があり、冤罪を誘発することについて指摘がなされた。
もう一度ふりかえる。
『普通の人々』は誰もがナチスに荷担する可能性を示し、『普通のドイツ人』はイデオロギーがナチスに荷担する可能性を示し、後者を否定する場合、殺人は条件次第では必ず発生するという見方になる。
それを簡素に示したのがアイヒマン実験であった。
・・・
今日は裁判官と検察官との関係性の問題や認知バイアスがいかに冤罪を生むのかを見てきたが、法律の専門家ではないので詳しく論じることは難しい。
ただ、問題点の整理くらいはできると感じている。
不可逆性というものが熱力学にあるわけであるが、これと同じような原理が法手続にも見られるように感じた。
保釈の却下率が極端に増えているという、三井環氏の発言から裁判官が検察の言いなりになっている状況が浮かび上がる。
裁判官は部分的に検察に任せっきりであるということが語られる。
一旦ある程度の判断のもとに手続きを進めると検察の性質上、引き下がれなくなるメカニズムがうまれるということである。(つまりは不可逆性)
そしてその判断には認知バイアスが含まれる可能性が大いにあるので、判断のミスが冤罪を生むという流れになる。
ヒヤリハットのように、事件にはならなくとも人間のミスは日々大量にある。
つまりは、著者が言いたいことはある条件が発生すれば人は必ず誤るということである。
その条件が個人の責任に還元されないのであれば、タイトルの通り「責任という虚構」の本質が明らかになる。
結語としては、この問題は法哲学をも含む恐ろしく複雑な問題だと思われるので、最後まで読みきらないとなんとも言えないところである。
公開日2022/10/31