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読書日記790

       小坂井敏晶『増補 責任という虚構』ちくま学芸文庫(2020)

■株式会社筑摩書房

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つづきをよみすすめた。

https://labo-dokusyo-fukurou.net/2024/06/20/%e8%aa%ad%e6%9b%b8%e6%97%a5%e8%a8%98787/

  

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日記

ホロコースト再考の章と死刑と責任転嫁の章を読み終えた。

ホロコーストの真の責任者は誰か。

ブラウニングは『普通の人々』、ゴールドハーゲンは『普通のドイツ人』を書いた。

前者はアイヒマン実験のように、誰でも加担者になり得ることを、後者は加担者は反ユダヤ主義に還元されることを示した。

しかし、一過性のイデオロギーに還元されるという見方は、裏を返せばすなわち、「ナチスに荷担したドイツ人には責任が無い」という見方である。

・・・

その次の章ではなぜ死刑について論じられたのかというと、要するに分業化が殺人に伴う心理的負荷を減少されるという事実、そして責任のありどころが不明瞭になるという点について示す必要があるためだとおもわれる。

二章の結語に、関係者の罪悪感を緩和させることは、誰でもナチスに荷担し得るということが懸念されるという主張があった。

これはここまでの議論を追えば容易に想像することができる。

ここで改めて本書の原点に戻りたい。

問題は、自由意思は環境によって左右されるために自己決定などというものはなく、人間の行動は「決定論」に従うために責任を問えないという提起から始まった。

その究極の場としてナチスの例が引用され現在の記事に至る。

プラトン『国家』を読めば分かる通り、民主主義は常に独裁へ向かうリスクを孕んでいる。

ドイツ人はホロコーストの記憶を絶対に消さないようにあらゆる工夫を施している。

一方、日本はどうか。

本書は様々なトピックへと接続できる、今日でも読む意義のある本だと実感しつつある。

公開日2022/10/30

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