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日記・感想
つい30年前までは「共感覚」という言葉に対する偏見が科学の世界において根強く残っていたと書かれていた。
しかしながら、神経科学や認知科学、心理学の発展によって科学的にその存在が認められつつあり、近年、これらの分野の知見が芸術や文学と結びつけられて研究されているとのことである。
『生命 科学の忘れ物』では、DNAを解析したところでそれは科学の記号にすぎず、そのデータからは共感覚というものが何も見えないと書かれていた。
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ただ、この共感覚については、まだまだ表面的なことを漁っているように見えた。おそらくまだ「確かに共感覚はある」という段階であって、この一連の研究が5万年前の文化的爆発を説明しうるかどうかと言えば、甚だ疑問だからである。
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『生命 科学の忘れ物』のクライマックスは夢中になって読めた。
著者は人生の意味について思い詰めた時期があり、それを乗り越えた瞬間というものがあった。
ゴーギャンという画家(サマセット・モーム『月と六ペンス』のモデルとされている人物)は、ある日突然絵を描くと宣言し、家族を放り出してどこかへ行ってしまった。
松尾芭蕉はある日突然隠遁生活に入り、そのあとで名句が生まれた。
「目覚めた」「覚醒」という表現だとどこか俗な感じがするが、たしかにこれらの芸術家にはそのような時期があった。
孔子は「30にして立つ、40にして惑わず、50にして天命を知る」という言葉を残したとされる。
40歳前後に心の何かが変わるのだという。しかしそこには条件がある。
社会心理学のなかに社会的認知という言葉があるが、人の思考や行動原理は社会的なものによって構造化されている。そういうものをすべて葬り去ることが必要とされる。
松尾芭蕉とゴーギャンには見事にそのような過程があった。
無意識のなかに構造化されている社会的なものをすべて取っ払うことによって人は真の自己に到達する。
著者は言う。偉大な文学作品、芸術作品にはそのようなプロセスを経た人物によって創られたものが多いのだという。実際そうかもしれない。
創造性について、本屋に行けば様々な本がある。
様々なアイデアを生み出す方法に関するハウツー本も多い。
しかしそのような小手先では絶対に深みには達し得ない。そう感じさせられた一冊であった。
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自分はオカルトやスピリチュアルには全く興味がないが、科学で捉えきれない原理や真理には大いに興味がある。
クリエイティブなことや、芸術に対してこれからは少し違った視点から見ることができそうだ。
多読の醍醐味はここにあったのである。今日は感動的なクライマックスだった。
この本にたどり着くまでに、いったいどれだけの書物を読む必要があったのだろうか。
大いなる書物の連鎖。大いなる人知の連鎖。
本は人類から人類への贈り物。