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読書日記807

        小坂井敏晶『増補 責任という虚構』ちくま学芸文庫(2020)

■株式会社筑摩書房

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つづきをよみすすめた。

https://labo-dokusyo-fukurou.net/2024/06/22/%e8%aa%ad%e6%9b%b8%e6%97%a5%e8%a8%98797/

  

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日記

とりあえず細かいことにとらわれず、一旦最後まで読んでみようということで、300ページまで読み進めた。

結局のところ、因果律で責任を問おうとするとおかしなことになることは、この300ページまでで忌憚なく述べられた。

突き詰めると個人主義と自己責任論はむしろ対極にあることが見えてきた。

・・・

小坂井氏は時間軸上の責任と空間上の責任の、二つに分けて整理した。

例えば飢えて死にそうな人がいるとする。

毎日その人の居場所を通りすぎて出勤する男性がいて、10回ほど通りすぎたあとに餓死してしまった。

この場合、どこかで助ければ命は助かったかもしれない。責任は時間の束に還元されるが、具体的にいつかは記述できない。

飢えて死にそうな人の居場所を複数の人が通りすぎたあとで餓死してしまった。

この場合、責任は通りすぎた人間の束であるが、特定の人に責任を追うことはできない。

前者は個人主義的、後者は集団責任的なものである。

責任という概念はそもそも出発点からして社会的なものなので、後者の意味合いが強い。

フォーコネは、犯罪は共同体への反逆行為だと説明する。(フォーコネ説)

犯罪を秩序の観点から「見せしめ」として個人を罰するという「スケープゴート」の発想であるが故に、「辻褄合わせ」として責任が機能するという理屈が生まれる。

かくして流れは精神鑑定にシフトして議論が展開されていく。

ここでふりかえると、「自己責任」というものは性質からして必然的に集団からの派生物であり、個人主義のように見えて実はそうではないという小坂井氏の鋭い指摘が垣間見えた。

つづく

公開日2022/11/3

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