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読書日記850

       佐藤優『いま生きる「資本論」』新潮文庫(2017)

■株式会社新潮社

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つづきをよみすすめた。

https://labo-dokusyo-fukurou.net/2024/06/28/%e8%aa%ad%e6%9b%b8%e6%97%a5%e8%a8%98848/

  

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日記

平成生まれの私としては、全共闘は全くと言っていいほど無縁な存在であった。

親でさえも僅かにそんな運動があったな、程度の認識である。

だが彼ら、全共闘世代が日々追求、模索したものが過去の産物となってただ図書館の隅で眠っているのはどういうことなのか。

ここが本当によく分かっていなかったのが本書を読むきっかけでもある。

まだこの運動からせいぜい50、60年程度しか経っていない。

一過性のものであったにせよ、何故時代は彼らをただの歴史としてしまうのだろうか。

・・・

マルクス経済学が古典となってしまった (良くも悪くも) 理由のひとつとして、佐藤氏は宇野経済学の後継者が途絶えたことを指摘する。

ソ連が崩壊したことがマルクス研究へのモチベーションに水をかける結果となった背景もあるのだろう。

しかし、そうしてマルクス経済学へ関心が薄れていくなか、官僚たちが『資本論』をしっかり読み取れていないことによって、宇野のイロニーが分からず、金融財政政策によって市場をコントロールできると思い込むようになると語る。

以上までが、第二回までの内容となっていた。

古典から先はマンキュー、スティグリッツ、ピグー、クルーグマンといろいろ分かれていくのだろうけれども、彼らは貨幣というものが存在する前提をどのように捉えているのだろうか。

そういう視点から見れば、例えばクルーグマンの理論崩壊 (リーマン・ショックを予想できなかった) ことなどが分かるのではないだろうか。

公開日2022/12/2

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