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読書日記856

             小田部胤久『美学』東京大学出版会(2020)

■一般財団法人東京大学出版会

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日記

価値判断と事実が相容れないのは、原因のひとつとしては言葉と行為が一致しないことにあると思われる。

ある音色や人物が美しいと思う人がいれば、そう思わない人もいる。

つまり事実としてはそれらが「美しい」とは言えない。

従って、価値判断と事実は水と油のような関係にあるように見える。

・・・

「美しい社会の実現」

こういう言葉は往々にして「綺麗事」と言われる。

確かに、実現すればそれ自体は「綺麗」を意味するだろう。

だが実際はそう簡単にはいかない。「綺麗事」とは、この文脈では「実現不可能」という意味である。

それは「ユートピア」と同じようなものだ。

・・・

自然そのものは完結的で整合性があるように見える。

例えば広大に広がる海を眺めるだけで「美しい」と人に思わせるのは、自然の完全性からでもある。

カントはそんな美について「目的なき究極性」と定義している。

本書によると、イギリスの政治思想家・哲学者エドマンド・バークが自然の「均衡」についての存在は認めたが、自然のうちの均衡が自然の美をもたらす「美の均衡説」を否定したと書いてある。

人体は確かに均衡状態にあるが、容姿に関しては人それぞれであり、美であったり醜くもあったりする。

このことをしばらく一人で考えた。

これは先ほどのべた、「価値ー事実」の対立と無関係ではないように見える。

美しいかどうかは「事実」ではなく、あくまでも「判断」のひとつであると思われるからである。

・・・

「綺麗事」という言葉が生まれてしまう原因を考えることによって、ある程度この美について説明を与えられるように思われた。

結論から言えば、「言葉と行為の不一致」がまずひとつとしてあるのではないか、と思うに至った。

言葉というものは貨幣と似たようなもので、ある種の約束ごとにすぎない。

辞書があるのは、言葉の意味を定義するとともに、言葉の意義、信頼を担保するためでもある。

明日から言葉の意味がごっそり変わっては社会がまわらない。

それは貨幣も同じであって、それが存在できるのは「信頼」が前提となっている。

つまり、言葉もある程度「信頼」で成り立っているということである。

この信頼の「揺らぎ」として「綺麗事」という現象が発生する。そのように理解すれば言葉が良くも悪くも働く理由が納得できるはずである。

公開日2022/12/6

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