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読書日記862

        浅沼圭司『ゼロからの美学』勁草書房(2004)

■株式会社勁草書房

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つづきをよみすすめた。

https://labo-dokusyo-fukurou.net/2024/06/29/%e8%aa%ad%e6%9b%b8%e6%97%a5%e8%a8%98859/

   

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日記

「主観的な合目的性」

今日は、心地よい知覚が目的にかなっているものであるという前提をカントが導入したことで、美の根拠に一定の説明を与えたという話を読んだ。

美にはなんらかの共通性がある。それは認めるが、バラつきがあり、相対的である。

この前提について自分で考えた。

・・・

一般的に、不協和音というものは不快なものとして知覚されるように思う。

まず普通に考えて、お店で流れるBGMに不協和音はほとんどない。それらは一定の音楽理論にかなったやり方で構成されている。それは当たり前すぎて論じるまでもないが、不協和音は人を遠ざける。したがって、不協和音はやはり不快なものとして位置付けられていることは疑い無いように思う。

しかし、この不協和音というもの、これについてよく考えると「無秩序」をも意味するように思う。

ピアノを知らない人が出鱈目に弾くと大抵は不協和音になる。

そして不協和音というものをよく考えると、叫び声だとか、悲鳴と重なる。

これは「アラーム」として機能するように見える。

もちろん、絶対音感の人が外を歩けば不協和音で溢れていることを察知するかもしれないので、おそらく強弱の問題になる。

それでもやはり、不協和音というものは「アラーム」としてわずかに機能するように見えることから、「美しい」というものを「機能性」だとか「有用性」で語るのは物足りなさを感じる。

不協和音でさえも「有用性」足り得ることを考慮するならば。

以上、やはり美学というものは一筋縄でいかない主観的法則というものの存在を思わせる。

公開日2022/12/12

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