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読書日記866

          アラン『芸術の体系』光文社古典新訳文庫(2008)

■株式会社光文社

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その他数冊

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日記

ニーチェがプラトン主義を批判したことはどこかで読んだ記憶があるが、攻撃対象は「論理学」にもあったことを保坂氏の本から学びとれた。(370ページあたり)

(詳細は割愛、気になるかたはご拝読を)

結局のところ、再び認識論の話になるのであるが、何故言語にはパラドックスがあるのかということを考えてみた。(ラッセルのパラドックス等)

これはおそらく、視覚においては「盲点」なるものが存在するように、言語においても盲点としてパラドックスが存在するのではないか、という考えに落ち着いた。

仮に主観が虚構であるならば論理学も自ずと虚構の産物に過ぎなくなり、結局のところ人類は表面的なことまでしか分からない、ということをニーチェは書いている。

・・・

三島由紀夫とニーチェの少年期の境遇が似ていることが理解できた。

だからといってそれで何が分かるのか、という話になるが、とりあえず三島由紀夫文学にはトーマス・マンとニーチェの血が混じっていることは間違いない。

・・・

アランという人物はカント『判断力批判』を熟読したうえで本書を書いていることが分かった。

自分なりに考えて、芸術は判断力と切れない関係にあることも理解できた。

また、言語によるコミュケーションもある程度判断力に影響していると個人的には考えている。

そして、芸術家は単に才能だとか、直感だとか、そういうもので絵を描いているのではないということは自然と分かるようになってきた。

公開日2022/12/16

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