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読書日記872

                カント『判断力批判 (上) 』岩波文庫 (1964)

■株式会社岩波書店

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日記

「美・快・善」

カントは3つの性質を調べながらそれぞれの違いを判定していく。

適時、事例を挿入して論じていくので部分的には理解できるものであった。

私はカント哲学の研究者ではないので、あくまで自分で考えたこと、自分で解釈したことを自分のために書き残す。

・・・

「快」は美的なものからも、そうでないものからも享受され得る。

例えばテニス、卓球その他数あるスポーツを行うことは、普通それが「快」であるからである。(楽しくないのにスポーツをする人はあまりいないように思う)

美しい景色や音楽を鑑賞することもまた「快」である。

(例えばパリの景色を一望して不快な思いをする人はあまりいない)

「快」は多様なものから引き出される。

カントは、美的なものから快を引き出す場合においては、その対象に普遍性がなければならないとする。

趣味と呼ばれるものは主観性の問題なので、客観性はないとしている。

美的なものが学問となり、趣味がそうでないのは客観性があるかどうか、この点にあると思われた。

つまり、美的なものは「快」であるが、「快」は必ずしも美的なものではない。

・・・

善は「概念」のみによって引き出されるとされる。

「快」は善であるとソクラテスはいうが、快楽のみを追い求めることは不幸になり得る。

快のみを追い求めるのであれば何も考える必要はないからである、とカントは言う。

ただ「理」はそれを拒否する。

従って、「快」は善の条件ではあるが、善の全てでもない。

・・・

次に美と善の違いであるが、これは自分なりに考えると、善は理性を要求するが美はそうではない、という程度の違いは認められると思われる。

美の考察はまず感覚的な次元からスタートするが、善はそれらを統合させるために理性をまず必要とし、考察の出発点は「理」であるからである。

つづく

公開日2022/12/24

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