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読書日記875

   ハル・フォスター『反美学: ポストモダンの諸相』勁草書房(1987)

■株式会社勁草書房

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日記

宮台真司氏の『崩壊を加速させよ』のP74に、「20世紀半ばには現代アートに未来がないと確定していた」と書いてあった。

小説も芸術のひとつである以上、自分が書いているものも過去の人間とただ同じことの繰り返しに過ぎない、と不安になった。

・・・

ハーバーマスの論述を二日かけて少しずつ読み込んでいった。

何回も何回も繰り返して読んだ。

まず、部分的に宮台氏の記述と同じものが確認できた。

“前衛といっても所詮は、「反権威という権威」になる。” (『崩壊を加速させよ』P73 )

と宮台氏は書き、

ハーバーマスは、西ドイツ新聞「フランクフルター・アルマゲイネ」に提出された批評家によるテーゼを引用した。

“ポストモダンは決定的に、反ポストモダンとして現れる” P17

加えて、これは現代を表す重要な心情的傾向である、と書いた。

・・・

本書によれば、「モダン(近代的)」は古いもの、古典から「更新」されたものとして表現されつづけたが、フランス啓蒙時代 (おそらくルネ・デカルト以降) になると初めてモダンが古典的なものから解除された、と書いてある。 

ハーバマスは、真に現代的であったものは古典の力を持ったが、フランス啓蒙時代以降は古典となる基準を自前で作り上げてしまったがために「近代的(モダン)」と「古典的(クラシック)」との間の関係が崩壊してしまったと書いている。

1960年代半ばになると、モダニズムは1917年の繰り返しにすぎないとオクタビオ・パス (詩人・批評家) が述べるようになった。

彼の発言は宮台氏の述べた、「1960年代半ばには現代アートに未来がないことが確定していた」と重なってみえた。

ひとまずここまでは確認・理解することができた。

・・・

宮台氏は「アートが歴史を動かしたことはない」とも書いていた。

芸術運動には力がないのかもしれないが、芸術という「表現・活動」自体は個人的な営みであって、政治との親和性は弱いのかもしれない。

公開日2022/12/26

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