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読書日記878

  土田知則『ポール・ド・マン――言語の不可能性、倫理の可能性』岩波書店(2012)

■株式会社岩波書店

公式HP:https://www.iwanami.co.jp/

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つづきをよみすすめた。

https://labo-dokusyo-fukurou.net/2024/06/29/%e8%aa%ad%e6%9b%b8%e6%97%a5%e8%a8%98871/

  

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日記

120ページほど読み進めた。

本書は、複雑なポスト構造主義の断片を串刺しにしつつも、言語と意味の揺らぎに関しての説明は概ね分かりやすく、カントの『判断力批判』と美学上の問題と結合させる考察の材料を提供してくれるように感じている。

・・・

美というものが主観的でありながら客観性をも同時に併せ持っている性質について、個人としては「事実(=客観)/ 価値(=主観)」の二項対立を基盤に考えていく戦略を採用した。

本書ではド・マンの歴史観が紹介された。

マンによれば、歴史は出来事である以上、言葉によって裏付けをせざるを得ない。しかしながら、歴史的事実は不確定性が内包された「言葉」によって事後的に「物語化=歴史化」されるものである、と。

序盤で著者によって言及されたように、マンは言語自体を否定しているわけではないが、テクストにおけるある種の「幻想(=意味の不確定性)は免れないと考えている。

・・・

「事実(客観)」というものは何によって保証され得るか。

今日、自分は断片的にではあったが一日中考え続けた。これを考えれば考えるほど袋小路にハマることがわかった。

宮台氏は、発言と行為が一致する存在形式はない、と『崩壊を加速させよ』のなかで書いていた。

その存在形式は今のところ無いのかもしれないが、それは人間の限界なのかどうかはまだ分からない。

ただ、ここでもう一度古典に戻ることでなにかしらヒントが得られそうな気がしてきたのであった。

公開日2022/12/29

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