閉じる

読書日記879

         星野太『崇高のリミナリティ』フィルムアート社 (2022)

■株式会社フィルムアート社

公式HP:https://www.filmart.co.jp/

公式X(旧 Twitter ):https://x.com/filmartsha?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

            鈴木創士『芸術破綻論』月曜社 (2022)

■有限会社月曜社

公式HP:https://getsuyosha.jp/

公式X(旧 Twitter ):不明

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

日記

今日は二作目の小説が完成した。執筆に時間を割いたのであまり読書が捗らない一日であった。

カント『判断力批判』の内容が複雑になってきたのでひとまず崇高の分析論に関する別の本を読むことにした。

本書によれば、崇高とは「快と不快の混合物」であり、かつ「不快を媒介とすることによってのみ可能となるような快」であるとカントが述べたと書いてあった。

・・・

後者の本はゲーデルとカントールについて語られた。

「文学の実在」という題名であった。

本書によれば、ゲーデルは論理学者ながら悪霊の実在を認めていたという。

今日の段階では一読するだけで疲れてしまったが、ひとまずゲーデルの発想はライプニッツのモナド論と深い関係にあることが見てとれた。

自己言及性というものを再度考えるきっかけとなった。

哲学者の池田晶子がよく言っていたように、「私」というものを突き詰めるとそれが著しく不可解なことだと分かる。(彼女は自分のことを「池田某」と呼んでいた)

ゲーデルの概念的には、「私」の集合において、「私でないもの」は含まれるのだという。

一段階高次にまた「私」という存在がいなければ「私」の集合を外側から見ることができない。

文字にしてみれば実に不可解。これは考えれば考えるほど頭が沸騰しそうなトピックである。

頭が疲れてきたのでここまでで終わりとしたい。

公開日2022/12/30

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。必須項目には印がついています *

© 2024 ラボ読書梟 | WordPress テーマ: CrestaProject の Annina Free