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読書日記920

  池田晶子『魂とは何か さて死んだのは誰なのか』トランスビュー(2009)

■株式会社トランスビュー

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日記

脳が「私」であるならば、「私の脳」というところの「私」とはなんぞや、といった突っ込みを池田晶子がいれる。

池田晶子が執筆をしていた当時(2000年代前半)は『バカの壁』が大ヒットし、本書のなかでもたびたび養老孟司氏への言及が見受けられる。

養老孟司氏が「脳の癖」という言葉を使って人間の心理を説明していることに対して、池田晶子はその考え方が養老孟司氏の「脳の癖」だ、と批判していた。

・・・

次に宗教について話が移る。

ここを読みきったときに私は「わかったつもり」の弊害を認識させられた。

池田晶子は「わからなければ考える」ことが普通であって、「わからないから信じる」というのは「わかったつもり」であるからだと語る。

「わかる」とはそもそも何か。

これはやはりプラトンでいう「想起」の問題だろうか。

「わかった」とはつまり「想起した」の言い換えである。

従って、「○○は実在する。○○を信じることによって救われる」といった言説を「わかった」として「信じる」人がいたとすれば、その人はその「○○が実在すること」を「想起」していなければならない、という筋になるはずだがどうだろうか。

「わかったつもり」になることによって、それは「自明」であることにされる。

そもそも、「わかる」は難しい。

読書感想を書けばわかるが、一度理解しても実はすぐに忘れてしまったりする。

ながったらしい講義を聞いて「わかっちゃった」と自信満々になっても、実は書き留めなければ忘れる。

これもまたいろいろと考えさせられる内容であった。

公開日2023/1/30

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