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中島敦『山月記』岩波文庫 読了

           中島敦『山月記・李陵 他九篇』岩波文庫(1994)

■株式会社岩波書店

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感想

簡単なあらすじ

李徴という主人公は、今でいえばキャリア官僚の地位にいて博学であった。

上下関係に嫌気を感じ、詩人になるために職を自ら棄てた。

しかしとても食べていけず憔悴しきった挙げ句、再び東へ出戻りすることに。

同期は昇進し、李徴は気がだんだんおかしくなりいよいよ発狂。そして姿を消す。

・・・

読み終えてすぐにトルストイ『人生論』を想起させた。

無駄なことをしているうちにあっという間に時は過ぎ取り返しがつかなくなる。

仮にこの物語が主人公の余計なプライドに対するアイロニーを示唆するものだとしたら、主人公の「詩作」は無駄だったのかもしれない。結果としては惨敗に終わり、むしろ不幸一直線となってしまったのだから。

要するに文人となり名声や地位を手にし、目の前にいる人間をひれ伏せてやりたいという気持ちがあったら、の話である。

本書のキーワードはプライドだと思われたのでトルストイのそれとは厳密には違うかもしれないが、執行草舟氏の「体当たり」の精神や岡本太郎の精神とは相容れない。

李徴のプライドの底には欲望が隠れている。

つまり「得をしたい」という感情だ。

損するか、得をするか。それだけしか頭に無ければ状況に右往左往されるのは自明である。

詩人としては才能がなかった、売れなかった、結局詩にあてた時間は「無駄」だった。以上の短絡回路で李徴の思考が止まる。李徴は精神が未熟である。彼はモーム『月と六ペンス』も理解できないだろう。

(中島敦ではなく李徴)

仮に成功してもその後の人生のどこかで毒をくらう羽目になるはずである。

公開日2023/1/28

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