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読書日記953

        小田部胤久『美学』東京大学出版会(2020)

■一般財団法人東京大学出版会

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つづきをよみすすめた。

https://labo-dokusyo-fukurou.net/2024/07/07/%e8%aa%ad%e6%9b%b8%e6%97%a5%e8%a8%98952/

   

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日記

本日は80ページから150ページまで読み進めた。

この文章を書いている時点で、気力を使い果たしてしまいあまり書く元気がない。

ひとまず、趣味と美をめぐって考察し、それをまとめ読者に伝達するために数百枚を要することは、これは裏を返せば「単純なことほど多くのものを含む」ということではないかと思った。

たしかゲーテの発言だった気がするが、人は理解していることほど知ろうとしない、という発言があった。

正確には「人は理解している「つもり」になっていることほど知ろうとしない」だろうか。

150ページまで読んで思ったことは、今まで自分がいかに知った気になって文章を書いていたか、ということであった。

読めば読むほどバカになっていくのではなく、読めば読むほど知らないことが多すぎると否応なく自覚し、そして自分がいかに無知なのかを痛感させられるということである。

だからといってそれは哲学的営みを正当化し得ない。

世の中は曖昧さ、そして虚構を必要とする。

個人的に「形式」というものはこの曖昧さの助力となると考えている。

書類上存在しているが実体は何もない。こういうことは世の中多くある。

これが「かたちとしての」存在であり、こういうものを虚構と呼ぶ。

ある種の必要悪である。

実際必要であろうし、「形式」があらゆる文化で存在する理由は人間の根源的なものだろうと感じる一日であった。

そしてカントは形式主義者であるということを本日知った。

公開日2023/3/5

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