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その他数冊
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日記
『脱人間論』は2023年になってから少しずつ読み進めた。
かなり分厚く、途中で一回止まったが昨日から再び読み始め、380項まで読み進めた。
本書のなかで「ヒューマニズム」という言葉が何回も何回も繰り返し語られる。感覚的には30回くらい繰り返されている印象であった。
その内容は端的に「笑顔のファシズム」ということであった。
みすず書房に『ハッピークラシー』という本があるが、それに通ずるものがある。
幸福についてはラッセルやアラン、アリストテレスなど様々な哲学者が考えそれぞれ本にしているが、彼らの幸福感と現代の幸福感はおそらく微妙にずれている。
例えばアリストテレス『二コマコス倫理学』の核となるものは「最高善」であり、それは「何か手段を必要としない目的」であったはずだ。言い換えれば、自己完結的な、あるいは自己充足的な幸福観である。
現代の一般的な幸福というものはどうだろうか。
それは自己完結的であるだろうか。そこに違いがあるのではないだろうか。
380ページまで読んだが、要約不可能なほど内容は重厚。これには参った、しかし左から右に抜けてはたまったものではない。
執行草舟氏がなぜヒューマニズムを繰り返し批判しているのか、ヒューマニズムの欠点はなにか、その原因はなにか、今少しずつ自分のなかで固めていく作業をしている。
ひとつはヒューマニズムが物質至上主義を生み、還元不能物質を量産していることであった。
これは以前の記事に書いたので割愛。
もうひとつは「自己礼賛」だ説明された。
これは以外にも複雑であったため次回以降、思い出しながらアウトプットしたい。
もうひとつには「狂気の否定」がある。
もちろん、多様性という名において「狂気」という言葉から様々な言葉を変えて現代では精神疾患として位置付けられている。
そうではなく、本来の狂気の意義とは、執行草舟氏によれば文明を築いた源泉であったということである。
吉田松陰、織田信長らの人物は狂気の典型であるとされる。
例えば哲学者ミシェル・フーコーは『狂気の歴史』において、精神病が「つくられたもの」であることを明かしたとされる。
精神疾患に感心が高かった2年前、個人的に人類学の文献などにあたって歴史的なことを調べた時期があった。
例えばある部族では、日本では統合失調症と診断されるような人も中にはいるとされ、それでも生活上なにも支障をきたさず平和に暮らしているという内容のものを読んだことがある。
問題なのは、狂気を「病気」として病院へ放り込む現代の社会構造である。
これを社会学的に見たものが熊代氏の本である。
ヒューマニズムは「安心・安全・幸福」を絶対的な価値とし、結果的に物質主義に至っているという点に問題があると個人的には思われた。いや、それだけでは語り尽くせない。
しかし内容があまりにも膨大なため今回はここまでで一旦、今日の『脱人間論』の読書のまとめとする。
・・・
『美学イデオロギー』も気づけば100ページまで読み進んでいた。
ヒュームら18世紀イギリス思想家たちが取り組んだ、共通感覚から出発した道徳感情についての考察の行き詰まりが露呈された。
最終的にはある「概念」を「虚構」と「現実」に区別することが非常に困難になる。
それによって「事実」が何であるのか、その同定作業が非常に難しくなる点にあった。
“リアリズム小説とヒュームの著作がともに明るみに出すのは、近代の商業社会においては虚構と現実はかんたんには区別できないという事実なのである。” P93
例えば貨幣は現実として、事実として機能してはいるが、あくまで信用が前提となっている。
しかしハイパーインフレをむかえればあっという間に1万円の価値が1円に等しくなる。
貨幣は決め事、約束事で成り立っている以上、「虚構」である。
虚構とは「つくりもの」の意である。
事実をもとに道徳法則を追っていくと必ずどこかで主観的な話になる。
しかし、そもそもその事実でさえ実際にはどこまで客観的であり得るか、どこまでその事実から虚構というものを取り除けるか、ここが非常に困難だとされる。
ひとまず、ヒュームの考察がいかに深いものであったかは理解できた。
・・・
音楽哲学はまた別の視点から美学に斬り込めると感じたので読むことにした。
カント『判断力批判』の内容と重なる部分もあるのでまた新しい知見が得られそうである。
つづく
公開日2023/3/21