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読書日記969

源河亨『悲しい曲の何が悲しいのか:音楽美学と心の哲学』慶應義塾大学出版会(2019)

■慶應義塾大学出版会株式会社

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その他数冊

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日記

哲学的自然主義に基づいて考察が行われた。

自然主義というのは小説のそれとは違い、認知科学や脳科学などのサイエンスを知見に取り組む態度のことをさすと説明された。

そして本書においては客観主義を最後まで支持するということであった。

昨日から読み進め130ページ弱まで読み進んだ。

この本は後半から面白くなるタイプで、疲れるまで、結局のところ全体の6割ほどまでにとどまってしまったがこのあとは結論に向けてなかなか見所のありそうな内容であった。

・・・

様々な哲学者が様々な切り口で音楽哲学というものを考察し、その概略が前半にまとめられた。

その内容をひとつひとつまとめることはあまり生産的でないので割愛。

「認知的侵入不可能性」という言葉は今日初めて知った。

ミュラー・リヤー図形による「ミュラー・リヤー錯視」というものは、文化圏によって効果に変動が見られるというものであった。

“アフリカのズールー族の人々には、ミュラー・リヤー図形のような錯視が生じない(あるとしても錯視量が少ない)と言われている。直線に囲まれた環境で暮らしているかどうかで、見え方が変わってくるというのだ” P89

ビルの多い都市構造では、いたるところでミュラー・リヤー図形が見られるため無意識に遠近法的な知覚が作用するというものであった。

そしてこのことについては現在も議論がなされているとのことであった。

ここは面白いトピックであった。

また、ジェームスの思考実験によれば、情動経験から身体反応を取り除くと何もなくなるという説が紹介された。

言い換えれば、情動経験はすなわち身体反応とセットであるという考え方であった。

例えば卒業式で涙を流したとしても、30年ほど経ち記憶がほとんど無くなった場合においては無理に思い出して涙を流すことは難しい。

これは美的経験が「一回性」であることが示唆されるように個人的には思われたが、この考え方がそこまでキーポイントであるとは思われなかった。

音楽と自然の音の違いは明確である。

明らかにミュージックは自然界で聴けるものではない。

自然の音(滝の音など)は美しいが人間のつくった曲も美しい。

自然の美はカントのいう「目的無き究極性」というものが存在する。

しかしなぜ人工的な曲にも美しさを感じるのか。

美的経験を「目的」の観点から考察する入り口を今日見出すことができたが、これはのちにまた書きたい。

もうひとつには、感情と美的経験の親和性である。

今日の段階ではここがもっとも重要であるように思われた。

つづく

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