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読書日記980

アーシュラ・K・ル=グウィン『暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて: ル=グウィンのエッセイ』河出書房新社(2020)

■株式会社河出書房新社

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その他数冊

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メモ

“私たちの住む、どんどん不安定さを増していく未来志向、科学技術重視の社会では、行くべき道を示すのは若い者であることが多い。彼らが、自分たちより年上の人たちに、何をすべきか指図するのだ。そういう社会では、誰が誰にいかなる理由で敬意を払うのだろうか?” P30 (『暇なんかないわ 大切なことを考えることに忙しくて』)

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日記

神奈川県では統一地方選挙が今月の9日に行われる。

街宣が増え外はなんだか忙しなくなっている。

政治について、自分はいつも文学とセットで考える。

福田恆存の対談集を思い出した。文学に政治性を持たせること、文学が政治的であることに対して否定的であった福田恆存。

福田恆存の時代はマルクス主義が跋扈していた。ゆえに、政治性と言えば彼らの時代は共産主義、社会主義、プロレタリア文学に関することであったと思われる。

しかし時代は明らかに変わっている。

自分は思うに、文学が政治性を持つ際に正当的であり得るには、現実の矛盾を打ち砕く可能性をもった破壊力ある思想を物語で包み込んだものでなければならない。

また、その思想は個人の私利私欲に基づいたものではあってはならない。

部分的にはその思想の主観性を排除しきれないにせよ、歴史的な連続性、伝統的な考えに基づいた普遍的でかつ現実性のある思想であるべきであり、それが社会の矛盾を解消できるきっかけを人々に与える可能性を予感させる作品であればむしろ時代的に必要な文学作品となるだろう。

思想と主観性の問題に関して言えば、そもそも意見とはどこまで普遍性を保持できるか、どこまで主観性を排除できるかという問いかけを掘り下げることは大事だ。

例えば、政治的な主張には「自分の敵は自分」というものが棚にあげられている場合が多い。

こういうことを考えるとル=グウィンの問いかけ(メモ欄に記載)に対して言えることは以下になる。

「自分は無知であり、年上の人から、あるいは年下の人からでさえも常に何かを引き出せるものがあると考え、そのためには対話が欠かせないと自覚、あるいは「信じて」いる人たちがお互いに敬意を示し合うことが可能となるだろう。また、対話のなかではロゴス(論理・理性)が重視されなければならない。そうでなければ全ての作業は水の泡となる。」

・・・

人は何をもって「自分で考えた」と言えるだろうか。

例えば、識者たちの見解をまとめることは「自分で考えた」ことになるのだろうか。

否。

「分かる」とは何を理解しているか、何を理解していないか明確に「分ける」ことができる状態だと言える。

従って、自分で考えた意見というものは、そのメッセージの部分から全体まで、意味を明確に分けることができなければならない。

例えば「新自由主義の蔓延る現代ではうんぬん」と主張する際、専門家が使用する用語には注意が必要ではないだろうか。

この新自由主義の「新」とは何か。自由主義と「新」自由主義の明確な区別はできるか。

こういう細かい確認作業がなされていない意見は「自分で考えた意見」とは言えないだろう。

自分で考えるということは池田晶子のように、まずは自分の言葉で考えなければならない。

専門用語、あるいは横文字がやたらに増えてきている今日の日本語を使って真剣に議論することがいかに難しくなってきているか、自分は実感しつつある。

これがもしかすれば人々の「分断」のひとつの原因なのかもしれない。

公開日2023/4/4

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