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読書日記982

バートランド・ラッセル『人生についての断章 新装版』みすず書房(2005)

■株式会社 みすず書房

公式HP:https://www.msz.co.jp/info/about/#c14087

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その他数冊

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メモ

“今日では民主主義の影響をうけて、協力の美徳が過去において服従の美徳が占めた位置に取って代わった。” P114 (『人生についての断章』)

“協力という徳は理想としても不完全である。自分一人ではなく社会との関連において生きることは正しいが、社会のために生きることは、けっして社会がしていることをすることを意味しない。例えば劇場で火災が起り、観客が我先きに逃げ出して混乱状態になった場合を考えよう。いわゆる「協力」の美徳しか持ち合わせていない人は自ら立ち上がって群衆に抗しようとする気迫を持たないために、群衆と一緒になって逃げるだろう。戦争に突入する際の国民の心理状態は、すべての点でこれと同じである。” P115(『人生についての断章』)

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日記

経済学者ケインズとの交流もあった哲学者バートランド・ラッセルの洞察力あふれるエッセイを面白く読んだ。

54項「政治家について」の章では、習慣の負の側面について語られた。

人々が心の底から民主主義を求めた時代においては偉大な人物が舞台に立つのが通例だったが、今では政治家というと嘲笑のひびきがあるとラッセルは語る。

選挙という出来事が習慣になることによって惰性的になり、人々は候補者に無関心になっていくとラッセルは見ている。

この人々の心理は30項「希望と恐怖」によく描写されていると感じた。

人間は感情は確かなものより不確かなものに関心が向くのが常である。

経済が不安定になればなるほど、人間はお金のことで頭がいっぱいになる。

体調が不安定になると病気のことで頭がいっぱいになる。

よく、つらい病気が治ると今までの何気ない生活が幸せだったと感じるものである。

これは人間である以上、多かれ少なかれ誰しもにあることだと思われる。

プラトンでさえも、このことについて著書のなかで触れていた。

プラトンはこの類いの幸福を「善」とは認めていない。

選挙の話に戻すと、やはり惰性は人々に無関心を生むことは避けられない。

ラッセルは改善策として自分自身への批判を怠らないことを提案する。

次にラッセルが教育について述べている箇所をいくつか読んだ。

ラッセルの時代でさえも(この断章は主に1930年代に書かれている)教育をまともに受けなかったとされる人々が富を築いたと書いてあった。

(実務面における天才は大学中退者が多い)

教育は能力を圧殺するとラッセルは述べた。

ただ、それは天才にだけ当てはまるわけであって、教育自体は必要であることは疑い無い。

問題は教育制度、特に日本では顕著であるが、とにかく出る釘は打たれることにある。悪く言えば洗脳のようなものである。(程度としては低いにせよ)

話を教育まで持っていって再度政治に話を戻す。

結局のところ人々に相応の「判断力」がなければならないわけであるが、それを、出る釘をとことん打つ教育制度によって学生の能力向上が妨害されていくのであれば、理想的な民主主義の完成など到底叶わないだろう。

道徳について一言。

ラッセルは33項「犯罪人は一般人よりも悪人か」において、自身の経験(戦時中における囚人との交流)と歴史や社会学を学んだことから、本当の悪人は銅像になるような人物だと述べた。

ここに、メモ欄に書いた道徳(≒協力)と美徳の矛盾を感じた。

つづく

公開日2023/4/6

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