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その他数冊
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メモ
スピノザの「コナトゥス (努力) 」について
“スピノザによれば、あらゆる事物は、すべてそれ自身の存在を肯定し、あるいは存在を否定しようとする力に抵抗すべく努めようとするという。この抵抗力が「コナトゥス (努力) 」である。「この努力が精神だけに関係する時には意志と呼ばれ、それが同時に精神と身体に関係する時には衝動と呼ばれる。したがって衝動とは人間の本質そのもの、ーーー自己の維持に役立つすべてのことが必然的に出て来て結局人間にそれを行わせるようにさせる人間の本質そのもの、にほかならない」(『エチカ』岩波文庫) ” (『ビブリオパイカ』P284 )
斎藤環「情報と文脈は対立概念である」
斎藤環(ベイトソンのダブルバインドについて)「「メッセージ」「コンテクスト」「関係性」が三すくみになってフリーズ化した状態」
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日記
今日は紀伊国屋書店に足を運んだ。
追悼大江健三郎。追悼坂本龍一。
非常に複雑な気持ちになった。追悼と言いながらも書店はそこに商売の契機を見出している。
勿論頭から否定はできない。物事は何事も往々にして良い面も少なからずあり、結果的にこのことが様々な人に、彼らの遺した芸術作品と出会うきっかけとなれば何か意味のあるものとなるように思う。
・・・
斎藤環氏がベイトソンの話の関連で、トム・クルーズ主演の映画『レインマン』のなかでサヴァン症候群(本作品のなかでは、ずば抜けた才能を発揮するが言語コミュニケーションができない症状であった)について触れていた。
また、リベット実験(行為が意志よりも先行することを示した実験)についても触れていた。
ここで疑問がわいた。
サヴァン症候群の患者は善悪の判断は可能か?と。
もし可能であれば、それは言語を介在しないはずである。
斎藤環氏は、サヴァン症候群は「メタ文脈の理解」能力が欠けていると見ている。
「空気を読む」という行為はざっくり言えば「文脈」を読み取ることである。
かつてアスペルガー症候群と呼ばれた人々もこの「空気を読む」ということが難しいとされる。
しかし、である。
空気を読めなくとも、言葉の「意味」は理解している。
彼らはベイトソンの「ダブルバインド」の状態(=フリーズ)にあるだけで、言葉は直感レベルでは理解しているはずである。
文脈を理解することと善悪の判断は同じ行為か?
ここが難問である。
善悪が相対的であるなら、それは(つまりは善悪の判断)歴史の連続性、時間性という制約を受ける。ゆえに「文脈的」な判断である。
これが真であれば、つまり善悪が相対的なものであるとすればサヴァン症候群の人々は文脈の理解が難しいので善悪の判断ができないことになる。
しかし現実はどうだろうか。
凶悪犯罪者にこのような人々はどれほどいるのだろうか。
ここで問われているのは多岐にわたる。
教育の本質や言語の本質への問いである。
善悪の判断が単に「規範の模倣( ≒ 道徳 )」であるかどうか。
この問いとリベット実験は無関係とは思えない。
言語よりも行為が先行するならば、言語はどのような役割を担う機能なのか。
リベット実験がつきつけるのは、思考という言語活動の根源に迫る問いである。
公開日2023/4/13