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新・読書日記102

      ルース・アビィ『チャールズ・テイラーの思想』名古屋大学出版会(2019)

■名古屋大学出版会(国立大学法人名古屋大学)

公式HP:https://www.unp.or.jp/

公式X(旧 Twitter):https://twitter.com/UN_Press?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

つづきをよみすすめた。

https://labo-dokusyo-fukurou.net/2024/05/24/%e6%96%b0%e3%83%bb%e8%aa%ad%e6%9b%b8%e6%97%a5%e8%a8%9852/
       エッカーマン『ゲーテとの対話 下』岩波文庫(1969)

■株式会社岩波書店

公式HP:https://www.iwanami.co.jp/

公式X(旧 Twitter):https://twitter.com/Iwanamishoten?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eautho

こちらもつづきをよみすすめた。(新・読書日記101に収録)

https://labo-dokusyo-fukurou.net/2024/07/10/%e6%96%b0%e3%83%bb%e8%aa%ad%e6%9b%b8%e6%97%a5%e8%a8%98101/

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メモ

『ゲーテとの対話 下』

文学について語るゲーテ(ロマン主義への批判(?))

”それから、話題は一転して、フランス文学に戻った。とりわけ、少なからず才能のある数人が最近見せている急進ロマン派的な方向について話した。ゲーテの意見によると、この今はじまったばかりの文学革命は、文学そのものに益するところ大であるが、文学を創り出す個々の作家のためにはならない、とのことである。” P322

  

同時代人、ジェレミー・ベンサムについて語るゲーテ

エッカーマンは高齢になりながらもなお旺盛な仕事をしている点においてベンサムはゲーテと似ていると語る

(ゲーテ)”「しかし私たちは、鎖の反対の端にいるようなものだ。彼は破壊しようとしている。私は、維持し建設するのを好む。あの年で、あれほど過激であるなんて、愚の骨頂だ。」” P338

  

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日記

『ゲーテとの対話 下』は明日に確実に読み終わるだろう。あっという間の読書時間であった。

ゲーテがどういう性格で、何になびき、何になびかないのか、人々からどのように思われているのか等、読んでいて多角的にゲーテや当時の芸術文化について学ぶことができた。

上、中、下巻を通し、名声を得ても(ゲーテの弟子になりたい、あるいは実際になった人間は後を絶たなかった)なお創作に事欠かないゲーテの至高性というものを肌で感じることができたように思う。

  

・・・

久しぶりに『チャールズ・テイラーの思想』を手に取った。どうもコミュニタリアニズムというものが釈然しなかったのかもしれない。とりあえず続きから地道に読み進めた。

テイラーが、リベラルという思想をどう捉えているのか、自由の観点から今日は学び取った。

自由というものを「消極的自由」と「積極的自由」に分けることで、リベラルは前者、テイラーは後者を推していることが掴めた。

 

リベラルというものに対して個人的に持っている印象は、既成の秩序のなかで古くなり、更新が必要だと判断されたものが彼らの批判の対象になるという、そんなイメージである。

その点、フェミニズムとリベラルは相性が良いように思う。男性優位社会の秩序を破壊し、新しい秩序を構築することは古いものを新しくアップデートすることを目標とするリベラルと利害が一致する。

ではなぜテイラーがそんなリベラルに対して疑いの目を持っているのか。

 

アイザイア・バーリンの定義によると、二種類の自由はざっくりまとめると以下になる。

・消極的自由・・・外部(国家など)の干渉の不在(~からの自由)

・積極的自由・・・各々が自制できること。判断力を備えていること。(~への自由)

~からの自由は受け身、~への自由は能動という意味で前者は消極的、後者は積極的であると言える。

  

テイラーはここで質的な区別を重視する。

“しかしテイラーは、この自由に対する、質的区別をしないアプローチは受け入れがたいと主張する。” P145

  

個人的に思うに、「~からの自由」は思想を必要としない。極端な話、それは資産を得ている人間にとっては問題にならないためである。山本七平と小室直樹が自由と権利について語っていた話を思い出す。

一般的な日本人の考える自由は「~からの自由」だという。自分は「free」の解釈について学んだ時期があった。

旧読書日記にそのことについて書いてあった。

“ですからフリーというのは、そもそも何とかかんとかをする権利という意味だった。” P44

フリーマン・・・東インド会社で貿易する権利のある人

フリーマンの話が少し語られたが、欧米の「自由」が「権利」とセットであるということは小室直樹『日本人のための憲法原論』でかかれている。

権利と自由をセットにしないのは、おそらく歴史的な理由にあるかもしれない。

また、権利はもともと「神との契約」だったと小室直樹は書いていた。

契約社会のアメリカとそうでない日本の違いはここにあるというのを記憶している。

  

このことを考察するとキリがないので割愛。ひとまず、「~からの自由」は多くの思想を必要としないことは確かだと思われる。マイケル・サンデルが『リベラリズムと正義の限界』という本でどのようなことを論じていたかまだ読んでいないが、恐らくリベラルはその思想的な基盤に消極的な要素が多いため限界があるのかもしれない。

「~からの自由」はどことなく個人主義的な趣を感じる。「ネオリベ」のという言葉があるように、能力主義のなか、個人主義が加速すると他者へのまなざしというものが軽視される。リベラルの基盤的な脆弱性はそこにあるのかもしれない。この点は多くの考察を必要とされるため断言は避けたい。

  

145項と146項には次のように書かれている。

“自由に関する考え方を説得的なものにするなら、特定の選択、関心、動機、そして目的が、その他のものよりも高次なものであり、より重要であり、より価値があり、あるいはより尊敬に値するということが認識されなければならない。” P145

  

”意味のあるかたちで自由であることは、単にやりたいことができる以上のことを必要とする。” P146

  

テイラーの政治理論はどことなくプラトン主義に近いと本書に書かれていた。(高次の自己が低次の自己を支配する)

自分もどことなくそのように感じたが、少なくとも、現代では積極的自由こそが求められている。それは確かではないか。

射程範囲が広すぎるのでいったんここでストップしたい。

つづく

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