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読書日記993

       斎藤環『「自傷的自己愛」の精神分析』角川新書 (2022)

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メモ

“自己批判を繰り返す人ほど、自分と他人を比較したり、自分の価値について思い悩んだりするなどして結果的に「自分について考え続けることで忙しい」状態に陥りがちです。この自分に対する尋常ならざる関心ゆえに、私はこれを「自己愛」と呼ぶのです。” (『「自傷的自己愛」の精神分析』P76)

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日記

今思えば認知行動療法(CBT)は言葉を正しく使用するための哲学的なプラグラムであったと自負できる。

認知の歪みというものはすなわち言語の誤った使用であって、言葉の乱れがそのまま心身にダメージを与えていることを忘れているのが現代なのである。

それでも人々は池田晶子の「言葉とは価値である」を理解できないのだろうか。

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昨日読んだ『ポストヒューマン:新しい人文学に向けて』がきっかけでジュディス・バトラーの理論に興味を抱いた。

精神分析は認知行動療法にとってかわりつつあるとどこかの書籍で読んだが、言葉の力で精神的な問題を解決しようとする営みはどちらも変わらない。

また、斎藤環氏には個人的に一定の信頼を抱いているので久しぶりに新書を手にとってみた次第である。

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『甘えの構造』を書いた土居健朗と斎藤環氏は「自己愛」自体は健康であるとみている。

彼らがいうに、「ナルシシズム」は自己愛が満たされなかった場合の病理という位置付けであった。

まず斎藤氏は言葉の一連の定義をし終わったあとに、自己心理学を研究したコフートの理論に依拠しながら自己愛や承認欲求について説明していった。

細かい点をいえば、ところどころで突っ込みを入れたくなり、やや端折り過ぎている感が否めなかったが重要なところはしっかりと説明されている印象であった。

まだ100ページほどしか読めていないが新書なので半分ほどは読み進んだ。

コフートは、精神分析の本質を他者との「共感的調和」にあるとした。

(精神分析の本質は)”「成熟した成人のレベルでの自己と自己対象の共感的調和を確立することである」” (『「自傷的自己愛』の精神分析 P68)

・・・・

ここのところ、読書をすると逆説というものがよく目に入る。

ジャック・デリダの「行為遂行/事実確認」がある点で逆転する「パフォーマティヴ論」や、今日の話でいえば「自分が嫌い」であるという言明は「自己愛」であるという逆説である。

目に見える世界と目に見えない世界は対照関係にあり、目に見える世界のマイナスは目に見えない世界のプラスであり、逆も然り。

この本の内容でいえば、目に見える世界であるところの「私」、つまり身体的側面の「私」への嫌悪(=マイナス)は、目に見えない世界の深層心理においては「自己愛(=プラス)」として表れるという具合である。

抽象的な話であるが、自分は言語ある場所には矛盾が常に隠れているという事実についていろいろと考えさせられる。

公開日2023/4/16

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