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その他数冊
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メモ
“主体とは、個人が理解可能性を達成し、再生産するための言語学的根拠であり、その存在と行為能力の言語学的条件である。” (『権力の心的な生』P20)
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日記
バトラー『欲望の主体』に挫折してしまったが、『反「大学革命」論』のなかに書かれていたデリダの「パフォーマティヴ論」に触発されるかたちで再度読む意欲がわいた。
・・・
読み込んでみると、バトラーという哲学者は「自分(主体)」という存在について極限にまで追及している人物であると理解できた。
ヘーゲル哲学に大きく影響を受けている点が文筆家の池田晶子と重なってみえた。
『ジュディス・バトラー』ではヘーゲル哲学は難解であると書いてあるが、池田晶子は「あんなに簡単なものはない」と述べている。
自分はヘーゲル『精神現象学』が分厚すぎて躊躇し、まだ読めていないが、池田晶子の著書をほぼ全て読み込んだことで半ば読んだ気になっている。
いずれは読みたいと思うが、池田晶子がヘーゲルを代弁していると受けとれば、池田晶子の主張とバトラーの主張はやや似ているように思われた。
池田晶子は自分のことを「池田某」と呼んでいる。
バトラーは「自分」という存在が権力に従属しながらも(言語は幼児期に獲得されるという意味において、また、人間の形成は社会抜きに説明できないという意味において)、しかし一方では第三者的に客観視できる存在でもある「主体性」の謎に斬り込んでいる。
『ジュディス・バトラー』を読んで、バトラーはその謎に答えは出せていないものの、デリダ「パフォーマティヴ論」のように、言語が持つ「決定不可能性」というのものが本質的に何を意味するのか、絶えず問い続けているということが理解できた。
バトラーのほぼ全ての著書で「主体」について問いかけが行われていると書いてあった。
『権力の心的な生』においても、深いレベルで主体について斬り込んでいることがみてとれた。
今日はここまでバトラーについて理解できたので個人的には及第点としたい。
・・・
『ポストヒューマン』を読んでいてひとつ思ったことがある。
今後人類は遺伝子などを操作し、また、AIなどと融合し自身をサイボーク化していくことが予測される。
これはある意味「アイデンティティ」の消失でもあると思うわけであるが(遺伝子を変えていくことによって家系や人種というものを超越した存在になるという意味において)、長期的に徐々に差別という概念が無くなるのではないだろうか。
つづく
公開日2023/4/17
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