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読書日記997

    アントワーヌ・コンパニョン『第二の手 または引用の作業』水声社 (2010)

■株式会社水声社

公式HP:http://www.suiseisha.net/blog/

公式X(旧 Twitter):https://x.com/suisei_sha?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

その他数冊

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メモ

“これまでもそうであったし、そして、今もそうであるように、多くの学者たちのあいだで引用を流行させてきたのは、偽の博識と多識の精神でしかなかったということ、このことは明らかであるように思われる。というのも、引用しなければならない理由がまったくないのに、大量の文章を絶えず引用する人々を見つけるのはまったく苦もないことで、彼らが引用するのは、自分の述べていることがあまりにも明白なので誰もそれを疑わない場合であったり、あるいはまた、自分の述べていることがあまりにも謎めいていて自分でもよくわからないのだから、いわんや引用する著者たちの権威も何らその証明になどならない場合であったり、あるいはまた、持ち出す引用が自分の述べていることにいかなる装飾の役目も果たさない場合であったりするからである。(・・・)自分が読んですらいない著者たちを読んだように見せかけたいとする欲求ほど異常な矜持もないだろう。しかしながら、こうしたことは頻繁に起きている。自分の著作のなかに、数世紀かかっても読了しえないほど多くのくだらない書物を読者の前に引用する三十歳の人々というのがいるのである。マルブランシュ『真理の探求』” (『第二の手 または引用の作業』P307 )

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日記

今日も本屋で立ち読みしたが読み込みたいと思える本がなかったので、積んだままになっている本を再度読むことにした。

立ち読みして今更ながらに気づいたことがある。

今日の哲学・思想書はあまりにも「引用」で満ち溢れている。

「フッサールによれば」「デリダによれば」「フーコーによれば」「ジジェクによれば」「ヘーゲルによれば」「フレーゲによれば」「ラカンによれば」「ドゥルーズによれば」

引用について考えさせられた。

日本人が書いた哲学書は、もはや引用のオンパレードとなっているようにしか思えなかった。

オリジナリティを感じない。池田晶子くらいしかいないのではないだろうか。

例えば、である。

「ヒュームによれば道徳とはyであるとされる」

という引用があったとき、仮にyが「真」であったところでそれは現代ではいかなる意味を持ち得るのか。

その先を提示できなければ知見にはなり得ない。

ところが、もはやその「道徳とはyである」という言明が正しいのかどうかすらあやふやな本が多いのも事実ではないだろうか。

「と言えるだろう」「からもしれない」「という考えをもつことができよう」

それが次なる考察へと押し進むものであれば問題はないが、「造語」が多い哲学書というものはマルブランシュの言ったように、本当に真理へ近づいているのか疑問に思うときもある。

これが普遍的なテーマを扱うのであればまだいいが、そうでない場合は考えものである。

「○○はAについてどう考えただろうか。それはBだろうか、Cだろうか」

このような場合、仮に○○という人物がAと考えたことが「真」であったにせよ、それで世界の何を「分かった」ことになるのだろうか。

まさに研究のための研究である。

それが「悪書」でなくていったいなんだというのだろう。

いろいろと考えさせられた。

公開日2023/4/19

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