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日記
『美学イデオロギー』のなかで、文学の市場形成によって中傷目的の批評家が生まれることに対するコールリッジの批判が取り上げられた。
”コールリッジによれば、中傷的な言語を生産することが習慣化した匿名批評家たちは、自らの人格を損ない、自己同一性を失う。(・・・) 言語と実体の乖離という特徴をもつ機械的言語の生産者は、自分自身の人格の堕落という結果を招くのである。” (『美学イデオロギー』P274)
池田晶子は『考える日々 全編』のなかの、「他人を言い負かしたいだけの人」の章において、理性と感情論の境界線を語る。
“なるほど、考えることを考えるとは、それ自体が否定の活動ではある。すでにそう在る事柄について、それはどういうことなのかと考えるのだから、理性とはその本性が否定性なのである。しかし、理性によって否定することと、感情によって非難することとは違う。たとえば、マルクスによるヘーゲル批判、ああいうのを正当にも「批判」というのである。考えのみによって、考えをひっくり返してゆく、それができない程度に応じて、人は感情的になる。”(『考える日々 全編』P450 )
理性的、すなわち「ロゴス」としての存在である人間は感情的でもある側面においてはそれ自体で矛盾した存在ではある。
しかし、だからこそ討論はロゴスによってのみ行われ得る。
ソクラテスが生きていた時代の言論活動はオープンな場であったが、決してソクラテスは感情論に走らなかった。
だからこそ対話相手の矛盾点をそつなくあぶり出したと言える。
しかし主張と中傷が紙一重のような現代において、討論の難しさは困難を極める。
ネット上で政治的な議論はおよそ不可能ではないだろうか。
・・・
『美学イデオロギー』を読み込み、美学と道徳哲学の接合点を再々度確認した。
“この時代の美学的言説は、いかにして自己の利益を追求する個別的な市民たちが秩序ある調和的な社会を構成するのかという問題を、道徳哲学や政治経済学と共有していたのである。” (『美学イデオロギー』P95 )
音楽の調和音は快をもたらす。調和のとれた色彩絵画は視覚的な快をもたらす。
その構成について、音楽では「周波数」などの数学的な指標として、美術では「配色理論」などは幾何学的な指標によって説明される。
数学や幾何学に頼らずとも、人々は感覚的に調和を理解する。
その感覚は直感と想像力の働きによって道徳哲学の普遍法則に還元されていく。
かくして道徳哲学にはなんらかの普遍性が存在しているという想定がなされ、「美学」という学問がその道筋を示す位置付けとなった。
文学作品も人々の心に働きかけ、直感と想像力を刺激する。
想像力を養うとされる文学作品は、間接的に「美学」に関わっていることを再度認識させられた。
小学校では「道徳」の時間に物語を読んだり観た記憶があったが、「想像力」というものが、有限的な存在である人間の、ある意味無限の「泉」であるということをなんとなく人々は感覚的に「分かって」いるのだと思われた。
池田晶子は『考える日々 全編』において、存在の内容と無限について語る。
“考えると無限に考えられるのは、存在の内容が無限だからで、存在することしか考えられないのは、それが存在の形式だからです。” (『考える日々 全編』P478 )
つづく
公開日2023/4/21