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読書日記1010

           島田雅彦『パンとサーカス』講談社 (2022)

■株式会社講談社

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その他数冊

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日記

『パンとサーカス』は5時間ほどかけて150ページ弱読み進めた。

「いまもっとも読まれている政治小説」ということでどういうものか気になるところであった。

時間はかかったが読みやすく、ストーリーや人物設定が頭にしっかりと入っていく小説であった。

ただ、政治に対するある程度の前提知識がない、例えば10代の若い読者がこれを読んで、「次にどんな本を読んでみたいと思うのだろう」と考えてみると方向性が見えてこない。

「政治家は国民のことなど何にも考えていない」だとか、「こんなクソな社会の力になりたくない」だとか、主人公たちが無意味な愚痴に終始しているようでは深い問いかけを与えることはできない。

ひとまず展開は気になるくらい面白いので、良い意味で裏切られたい。

・・・

『「社会正義」はいつも正しい』は5章「批判的人種理論と交差性」の終わりまで読み終えた。

「交差性」とは複数のカテゴリー(LGBT、人種、体型など)の組み合わせのことである。

例えば一時、痩せていることが「美」であるという社会的な価値観が拒食症などを誘発することで問題になったが、このような「規範(痩せているべきだ)」が複数存在することによって「交差性」は「応用ポストモダニズム」によって無意味に「単純化」されてしまうというのが第5章の内容であった。

具体的には、今述べたように「体型」というカテゴリーが社会的な問題となった場合、「性別」の問題と直結するがゆえに、「性別」というカテゴリーの存在自体を拒絶する「応用ポストモダニスト」は複数に絡む問題をあたかもひとつの単純な問題であるとしてしまうというのであった。

“まったく違う現象に対して一つの説明ですんでしまうし、またその一つ以外の説明があってはならない。”P162

独立した問題を一つの説明だけで済ませることは恐らく問題の解決にはならない。

本書のいう「応用ポストモダニスト」というのは言論の世界でどれだけのウエイトを占めているのだろうか。実際アメリカに住んでいないので分からないが、たしかに的はずれなことを考えていることは理解できた。

また、個人的には本書の格子と外れてしまうが、クィア理論やジェンダーの問題が今日のやや過剰に見えるハラスメント問題とどのように相関しているのか気になるところであった。

つづく

公開日2023/4/29

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