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その他数冊
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日記
『日本教の社会学』から感想を書いていくと話が広がっていくように思う。
まだ50ページほどしか読み進めていないが「空気」というものを徹底的に研究した山本七平と小室直樹の対談は非常に濃い内容であった。
そして昨日読みきった『パンとサーカス』とも多少内容の被るものであった。
本書の序盤は、内容としては「デモクラシー」とは何か、「自由」とは何かについて語られた。
アメリカと日本の決定的な違いは、アメリカは責任の所在を正確に定めるところから民主主義はスタートするが、日本において「民主的」と言われるもの、民主主義と思われるものは「多数決によって責任の所在が分散される」性質があるとされた。
これを端的に表す特徴として、小室直樹は「アメリカの黒幕は決定を陰から操作するが、日本は決定に至る空気を操る」と述べた。
決断をする者がハッキリと存在することが多数決の必要最低限の条件だということであった。
また、小室直樹は、
“いつまでも無責任に転化しうる無限責任ほどデモクラシーの土壌に異質的なものはない。” P38
と述べた。
その後、山本七平は日本的な「自由」の意味について説明した。
「商人なければ自由なし」
山本七平いわく、「ギクシャクしない状態」が日本的な自由を意味するのだという。
つまり「不自由の解消」というものが日本的な「自由」を意味し、これが西欧の「自由」とは厳密には違うということであった。
山本七平は「奴隷は売買の対象、自由人は契約の対象」と述べた。
権利があることが西欧にとっての「自由」であるという点に日本との差があることが理解できた。
内容を整理するには一日ではとても足りないのでまたこの話を記事に書いて整理したい。
小室直樹は「責任というのは自分に与えられた権限に対応する概念である」と述べた。
「自由」と「責任」がセットで語られるのは、西欧には「権利」と「自由」がセットであることを考えると、日本における「自己責任」という言葉が意味するのものはやはり若干ズレてはいやしないか、と思わざるを得なかった。
これについて詳しく書こうとすれば膨大な文章になると思われたので今日は割愛。
・・・
『自律を目指す教育とは何か』において、小坂井敏晶『責任という虚構』について触れられた。『責任という虚構』では、リベット実験が明かした「自由意志」問題を考えていくと「責任」は個人個人に還元できないので社会的につくられるという内容であった。
このリベット実験は教育哲学にもインパクトを与えたのだという。
自由意志がなければ「自律」など到底あり得ないではないか、となるわけである。
それでも自律は可能であることを教育哲学者は考え、考察が進んでいくわけであるが今日の段階では時間の制約上それ以上は読めなかった。
ひとまずレヴィナスの言葉をメモした。
レヴィナス「主体は他者への応答においてのみ存在し始めるため、つねに他者に服しており、他者への責任を負っている」
・・・
『連れ連れに文学を語る』においては養老氏が「言葉とは本質的に区切るものである」と語っていた。
「私」という存在は日々僅かに変化し続け、年を取っていくが言葉は「私」か「君」あるいは「私以外」しか語れない。
一人称、二人称、三人称。
1.5人称というものはない。しかし「私」という存在はレヴィナスの言ったように常に社会的に形成されるものであり、あくまでも言葉上の概念、区別でしかない。
言葉というものは本質的にゼロか百かという思考を招きかねない装置のようなものとして機能している。
哲学の問題はこの矛盾との戦いの歴史でもある気がしないでもない。
人は何が区別できて何が区別できないか。
ここが重要なポイントだと思われた。
例えば責任については、重要なものであればあるほど「ゼロか百か」でなければならなように思えた。
つづく
公開日2023/5/6