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つづきをよみすすめた。
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日記
トクヴィルの章を読み終えた。
フランスにおいては、1789年にフランス革命が起き、そのあとに「恐怖政治」が起こった。そのあとの1830年には7月革命が起きた。
“「自由」のための「革命」が、「自由」を破壊してしまうという逆説が続く中で、フランス人たちは次第に「自由」に対する情熱を失っていった。” P106
フランス革命は、民主主義が暴走すると恐怖政治になることを示したとされる。
本屋に足を運べば「日本が危ない」といった類いのタイトルで読者を煽るが、そういった本よりも中立的で、事実に則したものを自分はじっくり読んで判断していきたい。
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トクヴィルは『アメリカの民主政治』のなかで、フランス革命が暴走した原因は「人々が民主主義に慣れていなかった」からだと述べた。
トクヴィルは、人々を制御する法律や「理念」「習慣」などの欠如がその暴走を止められなかったとした。
当時のアメリカは民主主義革命を経ないでも、民主主義はその限界にまで成熟しているとトクヴィルはみなし、彼はアメリカから学ぶことでフランスに対する教訓を引き出そうとした。
トクヴィルはアメリカの民主主義を頂点と見ながらもその短所を見出した。
それは「多数派の専制」ということであった。
「多数の意見はだいたい正しい」という考え方が生まれやすくなり、少数派の意見が無視される危険性があるとした。
それを防ぐ手段としてトクヴィルは「結社」を挙げた。
とはいえアメリカの「連邦制」は「多数派の専制」を緩和するとも見ていた。
ポイントは中央集権の二面性、つまり「統治の中央集権」と「行政の中央集権」において、アメリカは後者には当てはまらないとし、この点がフランスと違うとトクヴィルは分析した。
本書にはさらに詳しく書かれているが個人的な力量不足で要約しきれないので、次の「民主的専制」に触れる。
(ミルの『自由論』とベンサムの考え方の相違点などの論考は割愛)
・・・
端的に驚いたのは、1840年に書かれたもの、予想されたものが今の日本に当てはまっているのではないか、と感じたことである。
「平等化」が進むことによって「隷従」へと導かれる傾向があるとトクヴィルは書いた。
民主的な社会で暮らす人々は「格差」に耐えられなくなり、平等を推進してくれそうな集権化された権力が支持されやすくなる。
その過程で「自由」や「独立」よりも「平等」を好むようになり、権力は「パターナリズム(父権的干渉主義)」になる。
市民の安全は保障するが、「規制」し「管理」していく(=干渉)ので「自由」よりも「平等」が進む。
これは島田雅彦『パンとサーカス』における「自発的従属」に近い。というよりも、ほぼ同じ状況である。
問題は「自由」よりも「平等」である点だと思われた。
これは極端に言えば「皆平等なら大丈夫」にもなりかねない。
山本七平によれば、日本人のいう「自由」は「~からの自由」、つまり消極的な自由である。貧困からの自由。不快感からの自由。苦しみのない状態、「平穏な状態」という意味に近い。
お金が沢山あることが「自由」と考える日本人は少なくないと思われる。
これが権利の意味合いを持つ「liberty=自由」と日本の「自由」の差である。
これを踏まえ「自由」よりも「平等」を愛する社会というのは、つまり「みんな貧乏でもみんな平等なら良い」社会ということになる。現に、そうなりつつあるのではないだろうか。
「政治が悪い」というのは小学生でも言えるわけであって、具体的にどの制度がどのように影響を与えるのだとか、諸外国において人々の行動原理と信仰心の関係はどうなっているのだとか、そのような細かい事例を拾い集め帰納的に見ていく力が必要なのではないだろうか。
公開日2023/5/7