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読書日記1032

    富岡幸一郎/紅野謙介『文学の再生へー野間宏から現代を読む』藤原書店 (2015)

■株式会社藤原書店

公式HP:https://www.fujiwara-shoten.co.jp/

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その他数冊

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日記

昨日読んだ『夢を売る男』のなかで、編集部長の牛河原が部下の荒木に小説に対する不満をぶちまける。

“「冗談でも言っているんじゃない。本当に小説なんか、面白くも何ともないんだ」” P174

“「前にうちで本を出した若いフリーターのバカも言っていたが、今はテレビもDVDもあるし、テレビゲームもあるし、ソーシャルゲームとかいうのもある。インターネットには様々なサイトがある。それこそ無数にあるから、自分の趣味と嗜好に合うサイトが必ずある」” P174

“「そんななかで千五百円とか出して読む価値のある小説がどこにある?(・・・)あのバカのフリーターの言葉のなかで唯一正しかったのは、それだ」” P175

https://labo-dokusyo-fukurou.net/2024/07/14/%e7%99%be%e7%94%b0%e5%b0%9a%e6%a8%b9%e3%80%8e%e5%a4%a2%e3%82%92%e5%a3%b2%e3%82%8b%e7%94%b7%e3%80%8f%e5%b9%bb%e5%86%ac%e8%88%8e%e6%96%87%e5%ba%ab-2015-%e8%aa%ad%e4%ba%86/

  

いろいろな統計データを見てみたが、一日の新刊発行数は『夢を売る男』に書かれていた「200冊」とほぼ同じで、2019年度で196冊、それにたいして本の売り上げ数は電子書籍が増えてきているおかげで、出版業界全体としては若干のプラスに推移しているようではあるが紙の本は年々減少傾向にある。

牛河原の気持ちも分からなくはない。自分はデジタルコンテンツからは意図的に距離を置いているが、たまに映画を観ると圧倒的なその感動体験は小説ではとても生み出せない。

そんなときに売れるためにつくられた小説なんかを誰が読むのか、と言いたくなる気持ちも分かる。

しかし『文学の再生へ』を読んだときに「ちょっと待った」と言われているような気がした。

『ゼロエフ』『平家物語 犬王の巻』などを出している古川日出男氏が「システムに抗する文学の可能性」のなかでアウトサイダーとしての文学の力を語る。

一度システムができ、その内側に入り込むとそのシステムに攻撃できなくなると古川氏は語る。

例えば、20歳以上の確認ボタンを押さなけば高齢者でさえもお酒を買えないという店もある。

融通が利かず、マニュアル化、システム化された店内では従業員でさえもそれを当たり前のように正しいものだと思い込みやすい環境を生み出してしまう。

なかなか内部構造や不正を防ぐ仕組みを変えることはできず、「内部告発」という言葉や「面従腹背」という言葉は小説にとっては美味しい材料となる。

今思えば、「面従腹背」をテーマとして島田雅彦『パンとサーカス』もアウトサイダーとしての文学作品だ。

https://labo-dokusyo-fukurou.net/2024/07/13/%e5%b3%b6%e7%94%b0%e9%9b%85%e5%bd%a6%e3%80%8e%e3%83%91%e3%83%b3%e3%81%a8%e3%82%b5%e3%83%bc%e3%82%ab%e3%82%b9%e3%80%8f%e8%ac%9b%e8%ab%87%e7%a4%be-2022-%e8%aa%ad%e4%ba%86/

   

本が売れないのは作家に力がないから、面白くないからと批判するのは小学生にもできると自分は思った。

しかし、このように考えるのはどうだろうか。つまり作家は読者をつくるという面もあり、つまらない本であれば別に買う必要はない。競争の原理にまかせ、価値あるものだけ、自分がこの人を応援したいから買う。必要のないものであれば淘汰されるのも覚悟で、安易な本づくりをすればやがて共倒れ(出版業界が全滅、小説がなくなる)を招くという意識があればいい。その意識が消えたときに小説の世界は喪失するのである。

・・・

自分は最近、ふたたび免疫に関心が湧いてきた。

矢野氏も言うように、科学の知見はメタファーとして人文系の領域で機能する。その逆もある。

比喩の力は偉大である。比喩があるおかげで物事の理解が進む。

免疫は恐ろしく複雑なシステムである。しかし、裏を返せば、それは神がかった完璧で複雑なシステムである。

人工的で複雑なシステムに「バグ」はつきものだ。それは生物学においても「転写」としてそのようなことが起きるが、バグと転写は次元が違う。転写のエラーには何か哲学的な、生命の本質が隠れている可能性はあるが、人工的なシステムエラーはただのエラーでしかない。

「自己組織化」という言葉も生物学から学んだ。

世の中は理系的な思考も十分に生かされるべきだ。

組織に関するビジネス書は数多にあるが、深い次元では人工的な組織を細胞レベルの組織の仕組みから解明される日が来るかもしれない。

免疫や腸に関する新しい知見には注目したい。

また、『真ん中の部屋』では、マラブーが「可塑性のある唯物論」を提唱している。

現代思想は明らかに最新の科学に影響を受けている。というよりも、科学に座を譲られているように見える。

「新実在論」のマルクス・ガブリエルでさえも、どこまで科学に傾斜しているかは不明だが『書物というウイルス』のなかで「心の哲学」問題に対する彼の考えは、ある程度物質に心の法則が還元されるが、全てを説明するには論理的に飛躍すると述べていた、と書かれている。

これではなんというか、科学者の意見とあまり変わらないように見える。

・・・

『文學の実効』の第四章「苦しみを乗り越える」ではソクラテスの死に対する考えが語られる。

ソクラテスは「真の哲学者は自分の哲学で死を迎える訓練をしている」と述べたと本書に書かれている。

その訓練とは、自己を「戯画化」するというものであった。

ここで正岡子規を思い出した。

私は、正岡子規は自己の死でさえも「喜劇」であるかのように捉えていたと高校生の授業で学んだ。

当時はただの強がりと思っていたが、これは思想や信仰心のような深い話だといまでは捉えている。

端的に言えばユーモアの力ということであった。

また、本書ではソクラテスの論理が分かりやすく書かれており(本書では『メノン』について言及されている)、読んでいて面白く学べるものであった。

『メノン』におけるソクラテスの論理は以上であった。

1.賢者でさえも「徳」を定義できない

2.ゴルギアスは「徳」を定義できる

3.ゴルギアスは賢者ではない

この論法をパロディ、あてつけ、皮肉の三段階に発展させて自分を戯画化すること、そして自虐ネタで笑い合う。これによってエンドルフィンが分泌され、気分が和らぐという内容であった。

本書は読書案内も豊富で、読みやすくとても良心的な本であるように感じた。

・・・

松岡氏の本では竹田篤司『明治人の教養』に触れ、「教養 ≒ 動的創造性」という深い話が語られた。

これもひとつのメタファーであり福岡伸一氏の「動的平衡」のような考え方に近い。

理系と文系の知は深いところで繋がっている。

ますます理系の知見を取り入れてみたいと思うようになった。

公開日2023/5/20

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