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読書日記1034

     パンガジ・ミシュラ『怒りの時代:世界を覆い続ける憤怒の近現代史』草思社 (2021)

■株式会社草思社

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公式(旧 Twitter):https://twitter.com/soshisha_SCI?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

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日記

戦争犯罪の責任はどこにあるのか。

アイヒマンの「上からの命令に忠実に従っただけだ」という主張は「命令に従わなければ射殺されてしまう」という前提とセットであった。

アーレントはこの問題について以下のように語りかけた。

“たしかにこの論拠はもっともらしく聞こえるので、その誤謬を確認するにはある程度の努力が必要です。この論拠がもっともらしいのは、マディソンの表現では「すべての政府は」、もっとも独裁的な政府でも、専制政治でも、「合意の上になりたつ」という真理に依拠しているからですが、これが誤謬であるのは、合意を服従と同じと考えているところにあります。合意するのは成人であり、服従するのは子供です。成人が服従する場合には、実際に組織や権威や法律を支持しているにすぎず、それを「服従」と呼んでいるのです。これは非常に長い伝統をもつ悪質な誤謬です。” P76 (『責任と判断』)

アーレントは、組織的犯罪の個人に対する責任は「公的」な活動から一切の距離を置いた人間にだけ免除されることを語りかける。(極端に言えば限界集落のような場所で暮らす人々)

当然といえば当然であるように思えた。

それが字義通り、「一切関わりのなっていない」証拠なのだから。

カントは仕事に従事している場合は一切の自由がなく、批判は私的な時間にせよと述べた。

カントが仮にアイヒマンのように中核にいた場合、どのような行動に出るのか少し想像してみた。

恐らくではあるが、組織の命令には同意したはずである。カント的な正義は「殉職」ということなのだろうか。

正義論や道徳、倫理の決着がつかないのは「信念」が深く関係しているように思われた。

・・・

昨日か今日か忘れてしまったが、「怒り」の矛先を人々は間違えているのではないかと自分は考えた。

「社会が悪い」

「大衆が悪い」

「怒り」について世界史の観点から分析されたものがこの『怒りの時代』である。

まだ50ページほどしか読めていないが、数百年サイクルで同じような現象が起こっているのではないか、と思われるところがあった。

引き続き読み進めたい。

公開日2023/5/22

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