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読書日記1040

        小川公代『ケアの倫理とエンパワメント』講談社 (2021)

■株式会社講談社

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その他数冊

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日記

『ポスト・ヒューマニティーズへの百年』の内容は、現代哲学の「思弁的実在論」というものと、その火付け役のきっかけを生み出した(再評価されつつある)ドイツ観念論のシェリングとの関係について論じられるものとなっている。

前半は、メイヤスーという哲学者がカント以来続いてきた相関主義(私たちは思考と存在について、結局のところ思考と存在の「相関」にはアクセスできるが、思考そのもの、存在そのものにはアクセスすることはできないという考え方)を批判しているという内容であったが、自分はこれは池田晶子とプラトン、ソクラテスの「イデア」への回帰のようにも感じた。

厳密にはそれぞれ考え方は違うと思われるが、「相関」というから察するに、例えば正義論に例えれば、正義は絶対的な、普遍的な法則があることを示唆する考え方に近い。

その点では「哲学するときに現代思想なんてものはいちいちいらない」と繰り返し述べ、「言葉とはそのものが価値である」と述べ、「人間は言葉によって作ら」れ、「言葉は決して使用価値ではない」と発言した池田晶子のほうこそ再評価されるべきなのだと思われた。

・・・

『ハッピークラシー』のなかで個人主義的な「ポジティブ心理学」の傾向が読み取れたが、アメリカにもその逆方向、つまり「ケア ≒ 相互扶助」に関する研究もキャロル・ギリガンらの心理学者によって行われているということが理解できた。

そこで度々、イギリスの作家であったヴァージニア・ウルフ (1882-1941) の全人類的な思想が参照されるというものであった。

ウルフは「祖国とは惑星である」と発言し、また、フェミニズムの観点からはウルフの小説における両性具有的な思考(=多孔的な自己)は、男性優位の社会において、男性がその知性に偏重し過ぎてしまい、心の内面を見渡す想像力が欠如しかねない状況を生み出してしまうことを示唆したとされる。

ウルフによれば、シェイクスピアにも多孔的な自己が認められるのだという。

優れた文学作品には両性具有的な思考が必要とされるという内容でもあった。

たしかに、ブルームの『反共感論』や綿野恵太氏の『みんな政治でバカになる』といった男性による知性偏重主義的なものの見方には自分も多少の違和感を感じた覚えがある。

コロナ禍以降、ときおり「分断」という言葉を目にするが、分断の良し悪しは一旦置いて、不毛な分断は豊かな想像力で打ち消すほうが双方のためだと自分には思われた。

この考え方は近年のヘイト・スピーチやヘイト本等との向き合いかたにヒントを与えてくれるだろう。

つづく

公開日2023/5/27

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