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読書日記1045

        大江健三郎『新しい文学のために』岩波新書 (1988)

■株式会社岩波書店

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その他数冊

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日記

『ケアの倫理とエンパワメント』からは様々なことが引き出せた。

今日はまずカントと比較されるバークの美学論と本質主義について読んだ。

美学の古典とされる『判断力批判』の著者カントは、黒人や女性に対して明らかに差別を行っていたが、エドマンド・バークの美学観も現代から見れば偏った考え方を持っていることが書かれていた。

本書によれば、バークの定義する「美」には(女性的な)小ささ、弱さ、滑らかさという意味が含まれている。

美学論というものは性質からして主観性を排除しきれないが、男らしさ、女らしさとは何かを決めつけようとする「本質主義(=男、女という「カテゴリー」として物事をは理解されなければならないと決めつける態度を指す)」の在り方に対する問題意識は著者と共感できるものであった。

・・・

ひとまず『ケアの倫理とエンパワメント』の第一章を読み終えた。

ざっくりと要約するならば、デヴィット・グレーバーが『ブルシット・ジョブーークソどうでもいい仕事の理論』でも提唱されたように、カイロス的時間(定性的な時間)がクロノス的時間(定量的な時間)に変換されてしまう現代社会(=資本主義)においては「想像力」と「共感能力」がその流れに抵抗できる力である、というのが著者の主張であった。

(以上が第一章のまとめの部分を要約したものである)

次は個人的な解釈であるが、『ハッピークラシー』でも幸福度がビッグデータによって数値化(=定量化)されている(GNH)ように、現代社会は「知性/心」の二分法で考えると前者の知性に偏重しがちである。

(『反共感論』や『みんな政治でバカになる』も知性で物事を解決しようとする)

本書では心が女性的な性質を持っているかのように読者に思わせる節も見受けられたが、「共感」という感情の負の側面だけに着目するのはあまりよくないように思われた。

アップデートというと俗な言い方になるが、共感能力を理性と同等の位置に置かなければますます男性的な知性による監視社会、アルゴリズムによる設計主義に陥り、人間らしさ(=心の豊かさ)が剥奪されていくように思えなくもない。

著者はヴァージニア・ウルフとトーマス・マンの文学作品に触れ、対立、衝突する価値観を一旦留保する「両性具有」的な考えの大切さを力説する。

著者によれば、両者ともに「命を危険にさらしてまで正義を貫くのは愚かである」という考えを持っているとされる。

トーマス・マンは『魔の山』でセテムブリー二とナフタの論争によってそれを示し、ウルフは『三ギニー』などの作品において、おのれの大義のためではなく男女が協力して生きていくことの大切さを説いた。

妥協するならばそれは大義と言えるのかどうか。

その点は疑問であったが、いろいろと考えさせらるものであった。

・・・

大江健三郎の文学論を読んでみた。新書なので一日で読めると思っていたが、想像以上に深いものであり、50ページほどしか進まなかった。

ひとまずミラン・クンデラや大江健三郎の発言をメモした。

クンデラ「人間の権力に対する戦いは、忘却に対する記憶の戦いだ」

クンデラ「小説とは様々な問題を探し求め、提示するものです。(・・・)私は幾つもの物語を作り出し、ひとつひとつを互いに相対させる。この仕方で私は様々な問いかけをするのです」

クンデラ「作家は、その読者に世界を問いとして理解することを考えるのです。その態度のなかに、知恵と寛容があるのです」

大江健三郎「能動的な行為を読み手によび起こすことを期待して、作家は文章を書くのである」

・・・

大事なものは答えよりも問いかけであることを再認識した。

答えを知りたがる心理は分かるが、一旦答えが分かると思考が停止してしまう。

問いかけはつねに動的であり、能動的である。テレビのように受動的な媒体は人に考えさせる力が弱い。

文学の役割は思考停止の空白を問いかけによって満たすことにあると思われた。

つづく

公開日2023/6/3

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